今般、『フォーサイト』で軍事問題についての連載を引き受けることになった。
編集者からは「リアルな軍事問題について『こう考えればいい』という指針になるようなものを書いて欲しい。言ってみれば『日本人のための軍事問題入門』になるものを」という依頼を受けた。
「いいでしょう」と軽く答えては見たものの、「これはなかなか難しいな」とも感じている。何故なら日本には軍事について内外に通じ合う共通の言葉がないからである。
多くの日本人は「安全保障」と「防衛」と「自衛」は同じものであり、そしてその国際法上の「自衛」は国内法の「正当防衛」と全く同じものだと誤解している。
また自衛隊をそれなりの軍隊だと思っているようだが、その名称を「Self Defense Force」と英語に換えて話しても多くの外人には全く理解されない、ということすらご存じないのである。
軍事の目的は外交に寄与し平和(秩序)を構築することにあるのだが、何れにせよ軍事は相手のある国際問題なので、相手に正しく理解されなければその本来の目的を達成することが出来ない。
「集団安全保障」と「集団的自衛権」の差異を知らない
今、話題になっている「集団的自衛権」や「集団安全保障」についても同じである。
2000年10月に米国シンクタンクINSS(国家戦略研究所)が第1次アーミテージ・レポートを出した時に、日本の殆どのマスコミは、その最大の論点は「日本の集団的自衛権の行使だ」、と報じた。
ただ1社、朝日新聞だけは「集団安全保障の義務遂行だ」と伝えたのだが、その朝日は「集団的自衛権」のことには触れず、その他のマスコミは「集団安全保障」に一切触れなかった。
実際には「安全保障」の項に「日本が集団的自衛権を禁止していることは日米の協力を制限している。
これを取り除くことにより、一層緊密かつ効果的な安全保障協力が可能となる」という文言があり、それとは別に「外交」の項に「米国は日本の国連安保理常任理事国入りへの探求を支持すべきである。
しかし、そこには集団安全保障の明確な義務があることを日本は理解しなければならない」とあったのだが、その両方を正確に伝えたマスコミは皆無であった。
あるテレビ解説者は「日本が集団的自衛権を行使できるようにならない限り、米国は日本の常任理事国入りを認めないと言っている」と混淆しかつ間違った説明をとくとくと述べていた。
要するにマスコミも学者も政治家も官僚も、「集団的自衛権行使」と「集団安全保障」の差異を全く知らなかったということである。
実は、このアーミテージ・レポートの主要論点はそんなことではなく「沖縄基地問題の将来展望について抜本的な『戦略対話』をしよう」ということだったのだが、それに気づいた人が殆どいなかった、ということでもあった。
ことほどさように、戦後71年間の日本人は軍事に関心なく、軍事に関する言葉も知らず、ただ世界の潮流の中で否応なく、訳も分からず軍事を議論してきた。
防衛大学入校以後39年間、日本の軍事の実務に携わり、爾後独学で軍事を考えてきた私自身も、実はそれほどの軍事エキスパートではない。陸上のことは多少知っていても海・空のことは良く知らないのである。
しかし「軍事は国家の大事であり、その在り方は政治家・学者・マスコミを含む、国民(国の主権者)自身が決定するもの」と考えるならば、その国民に少しでも軍事の実態を知って戴きたく、本連載に努力したいと考えている。
湾岸戦争は130億ドルで
第1回の「集団安全保障と憲法第9条」は、本連載の主要テーマの1つ「集団安全保障」を説明するための文章である。
日本国憲法が制定されて以来70年、憲法との関係で「集団安全保障」が議論されたことはあまりなかった。
ただし、1990年~91年にかけての湾岸戦争(イラクがクウェートに侵攻したことに対する国連安保理決議の下の多国籍軍=有志連合軍の反撃)時には日本もこれに参加すべきではないかという議論が確かにあった。
ジャーナリスト・田原総一朗氏によると、それまで憲法擁護を掲げていた高坂正堯京大教授(故人)が「こうなったら日本も多国籍軍に参加すべきだ」とテレビ番組中で発言し、それを聞いた有力雑誌の2人の編集長が「高坂さんが自衛隊も行くべきだといったのだから、我々も『行く』にしようか」と田原氏に言ってきたとのことである(筆者と田原氏の対談集『矛盾だらけの日本の安全保障』海竜社、より)。
こういった議論に応じ、当時の海部内閣も相当前向きの案を出したのだが、自民党ハト派の反対に会いその法案はつぶれ、結局、軍資金(130億ドル)を出すことで決着がつけられた。
その湾岸戦争終結後に、クウェートが「集団安全保障」参加各国に感謝の新聞広告を出したのだが、そこに日本の国旗はなく、その時日本人は、金を出すことでは「集団安全保障参加」にならないことを悟りショックを受けたのであった。
その後、日本はペルシャ湾に掃海部隊を派遣し、更に宮沢内閣で国連PKO法をつくりカンボジア派遣等のPKO(平和維持活動)参加を始めることになった。
その上、多国籍軍に対する兵站支援も始まったのだが、「PKOと多国籍軍への兵站支援は武力行使をしないので、憲法違反とはならない」と説明され、それ以降、国民は「集団安全保障」という言葉を全く使わず、それを議論しなくなった。
誰も語らなくなった「集団安全保障」
PKOも多国籍軍(国連認可の有無に拘わらず)への兵站支援も、ともに国連憲章には明記されていないものだが、実は立派な「集団安全保障措置」である。
なのに、この頃より政治家も学者も官僚もマスコミも「集団的自衛権」のことだけを議論して「集団安全保障」を全く語らなくなってしまったのである。
その、誰もが「集団安全保障」を語らなくなった時代の状況を、1人「集団安全保障論者」となったがゆえに誰からも相手にされなかった当時の筆者が、メモし、机の中にしまっておいたペーパーが、次節からの文章である。
最近は「国連が認可した多国籍軍」は勿論、「安保理決議のない有志連合軍」も「集団安全保障措置」であり、PKOは武力行使をするものであろうがなかろうが無論「集団安全保障措置」の1つであり、更に北朝鮮をめぐる6カ国協議や、イランと米欧6カ国との核協議も「集団安全保障」だと、多くの人々から認められるようになった。
とはいえ、「集団安全保障」と「集団的自衛権」の差異が全く分からないという人が、今なお多数存在することも事実である。たった15年前には2大政党のトップクラスでも理解していなかった問題なのだから無理もない。
まずは、15年前の政治家の無知ぶりを省みることから、互いに考えてみたい。
「小泉首相の発言はおかしいのでは」
2001年初夏、小泉政権が発足してから国会中継が面白くなった。筆者も多くの国民と同様、新首相の率直にして歯に衣着せぬ発言が好きで、それをよく見るようになった。実は、その日も、ある友人とともに予算委員会の様子をテレビで眺めていたのである。
民主党の菅直人幹事長が首相に「総理は我が国の国連安保理・常任理事国入りに慎重だと聞いているが、今でもその考えに変わりはないか」と質問した。
これに対して小泉首相は「その通り、今でも常任理事国入りには慎重でなければならないと思っている。
なぜなら、現在の常任理事国はいずれも国際紛争解決の手段としての武力行使を放棄していないが、日本は憲法によりそれを放棄している。
常任理事国入りのためには、そのことをきちんと説明し、その他の面で国際社会に貢献するのだということを理解して貰わねばならない。その上で常任理事国になるということならば納得する」と答えた。
「あれっ、今、何かおかしなこと言わなかったか」と筆者が言うと、一緒に見ていた友人が「うん、確かにおかしい」と返した。
しかし、質問者の菅幹事長は首相の回答に何の異議も唱えず、すぐに別の質問に移ってしまった。友人と「これはちょっとした問題になるかもしれないぞ」「そうだな」という会話をしてその日は終わった。
翌日、新聞にもその質疑応答の様子が出ていた。各紙とも、上記問答をおおむねその通りに伝えていたが、われわれのような「これはおかしい」とする批判は一切なかった。
つまり首相の言葉はまったく問題発言ではなかったのである。その後、友人と会い「あの発言をおかしいと感じた俺達のほうがおかしい時代なのだ、つまり変人は小泉さんでなく俺達の方だということさ」と笑い合ったものである。
変人のわれわれが小泉発言を「おかしい」と思った理由について、説明しておこう。
上記の首相発言の中で「おかしい」のは「現在の常任理事国はいずれも国際紛争解決の手段としての武力行使を放棄していないが」という部分である。
現在の常任理事国といえば米・英・仏・露・中の5カ国のことである。「この5カ国がいずれも国際紛争解決の手段としての武力行使を放棄していない」というのはこの5大国に対して極めて挑戦的で失礼な言葉であり、外交上の大失言になるのではないか、とわれわれは危惧したのである。何故か。
憲法9条と不戦条約と東京裁判と
国際紛争を兵力に訴えることなく平和的に処理しようと約束した最初の多国間条約は1907年のハーグ条約(国際紛争平和的処理条約)であるが、日本人にとって、より印象的で身近な条約は1928年のパリ条約(不戦条約)である。
パリ条約といわれるものには他にも色々なものがあるので、人々はこれを「ケロッグ・ブリアン協定」とか「戦争放棄に関する条約」とも呼ぶ。現今では「不戦条約」が一番通りやすいので、以下これを「不戦条約」と呼ぶことにしよう。
この不戦条約が、なぜ、日本人にとって身近で印象的なのだろうか。それは、かの東京裁判(極東国際軍事裁判)が、主としてこの条約違反を根拠に裁かれたからであり、また、憲法9条第1項がこの条約のコピーだからである。
不戦条約は、第1条「戦争の放棄」、第2条「紛争の平和的解決」、第3条「批准、加入」の3カ条からなる短い文章の条約である。
この条約に関しては、「この不戦条約は自衛権を制限するものではない」とする米国政府公文や、「第1条中の『其の各自の人民の名において』という字句は日本国に限り適用しないものと了解する」という日本国政府宣言書が出されている。
これらのことも後に重要な意味を持つことになるのだが、先ずはその第1条をもう1度読んでみよう。
・第1条(戦争抛棄)
締約国は、国際紛争解決の為戦争に訴うることを非とし、且つ其の相互関係に於いて国家の政策の手段としての戦争を抛棄することを其の各自の人民の名に於いて厳粛に宣言す。
参考までに、憲法第9条1項をこれと比較して読むと面白い。
・第2章(戦争の放棄)
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
これらは瓜二つの文言であり、同義であるとする学者が多い。「それはケーディス大佐という日本国憲法の起草者が、不戦条約の起草者であるフランク・ケロッグ(元米国務長官)をとても尊敬していたからだ」という裏話までつけて説明してくれる人もいる。
とすれば、この不戦条約を根拠に、原告兼検事兼裁判官として日本を裁いた5大国が、自分達だけは今なお「不戦条約違反をしている」すなわち「国際紛争解決のための戦争を放棄していない」とする小泉発言は、東京裁判に絡み相当挑戦的で失礼な言葉ということになるのではないか、というのがわれわれの心配だったのである。
もし、それを承知で5大戦勝国(現5大核保有国)に対し極めて強烈な皮肉を言ったのだとすれば、これはこれで大したものである。
それなら「田中真紀子外相の諸発言など、とても及びもつかぬ」ということになるのだが、多分そうではなく、これは何かの間違いに基づく発言だったと思われる。
諸外国でもこの発言を知った人がいたとすれば、「まさか、そんなことを言うはずはない。何かの間違いだろう」と思ったに違いない。だから国際問題にならなかったのであろう。
インドのパル博士はパル判決書により東京裁判を批判したが、その中で不戦条約について概略次のように述べている。
「不戦条約は法律として不十分なものであり、ここから平和に対する罪などという犯罪を導きだすことはできない。なぜなら違反に対する制裁機構も手段も定めておらず、自衛の範囲を各国の自由な判断に委ねているからである。ましてやこの条約違反によって個人の罪を問うなどということはできるはずもないのだ」
しかし、裁判官の多数意見はパル判事の意見を退け(隠蔽し)、「日本は不戦条約に違反し、侵略戦争を計画し、準備し、実行した。これを共同謀議した被告たちの罪は重い」として、判決を下した。
この判決を支持し推進したのが、11の原告国、とりわけ、5大国であったことは言うまでもない。
その、不戦条約を金科玉条とした5大国、すなわち現在の安保理常任理事国が「われわれの方は国際紛争解決の手段としての戦争を未だ放棄してない」などと言える訳はまったくないのである。
国連が補強した「不戦条約」
あるいは「小泉さんは決して戦争とは言っていない。あくまでも武力行使と言ったのだ」と弁護する人がいるかも知れない。
確かに、戦争と、武力攻撃と、武力行使と、武力による威嚇とを、厳密に分ける考え方もある。
平成3年の政府答弁では「武力の行使とは、国際法上認められている戦争行為に至らない事実上の戦闘行為を意味する」とあるので、小泉発言は「5大国は国際紛争解決の手段としての戦争は放棄しているが、武力行使までは放棄していない。
一方、日本国憲法は国際紛争解決の手段としての戦争も武力行使も放棄しているのだ」と聞けないこともない。しかし、それは通らない。
満州事変や支那事変は戦争ではなく武力行使の範疇に入る。なぜなら中国も日本もお互いそれぞれの都合で当時は敢えてこれを戦争と呼ばなかったからである。
ところが事後になされた東京裁判は、これらを戦争の一部に組み込んでしまい、日本の侵略戦争とし、支那事変を日中戦争と呼ばせることとしてしまった。
パル判事はこのことにも異議を唱えているが、5大国が主導する東京裁判はその異議をも無視したのである。だから、5大国が不戦条約に関連し、「戦争は放棄したが、武力行使は放棄していない」などと言える訳もまたまったくないのである。
パル博士が不十分な法律と批判した不戦条約は無論まだ活きているが、その不十分な部分はその後、国連によって大分補強されたといえる。
国連憲章と国連機構が、この50年を超える歴史の中で、完全とは言えないまでも違反に対する制裁・抑制の実績を積み重ね、その慣習が国際間の法としての形を造りつつあり、各国の判断に委ねられていた自衛についても1974年の侵略の定義に関する決議によって一応の基準が示されたといえる。
そのような法体系下の現代では、いかなる国も「国際紛争解決のための戦争や武力行使」は出来ず、各国が武力行使を認められるのは、集団安全保障と自衛(個別的・集団的)の場に限られるということである。
冨澤暉
元陸将、東洋学園大学理事・名誉教授、財団法人偕行社理事長、日本防衛学会顧問。1938年生まれ。防衛大学校を卒業後、陸上自衛隊に入隊。米陸軍機甲学校に留学。第1師団長、陸上幕僚副長、北部方面総監を経て、陸上幕僚長を最後に1995年退官。著書に『逆説の軍事論』(バジリコ)、『シンポジウム イラク戦争』(編著、かや書房)、『矛盾だらけの日本の安全保障』(田原総一朗氏との対談、海竜社)。
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(2016年9月9日フォーサイトより転載)