自分は一体何者なんだろう――。幼い頃のぼくは、常にそんな想いと対峙させられてきた。
対峙“してきた”のではなく、“させられてきた”と書いたのは、文字通り、それがぼく自身の望みではなかったからだ。
両親の耳が聴こえない。
たったひとつの事実によって、ぼくは社会からつまはじきにされているような感覚を、何度も何度も味わってきた。聴こえる世界と聴こえない世界を行ったり来たりしながら、どこにも居場所がないような感覚。10代のぼくにとって、それは不安や孤独につながるようなものだった。
どこにも誰にも吐き出せない想いが怒りに変わり、両親にぶつけたこともあった。
「なんで障害者の家に生まれなきゃいけなかったんだよ!」
こんな言葉を、何度も叫んだ。
いま思えば、なんて酷いことを言ってしまったのだろう。いくら後悔してもしきれない。
でも、両親はぼくを責めたりしなかった。どうしようもないことで怒り狂うぼくを見て、ただ「ごめんね」と繰り返すばかりだった。そして、傷ついたことを悟らせまいと笑顔を浮かべる彼らを見て、ぼく自身もどんどん傷だらけになっていった。
彼らは悪くない。そして、ふたりから生まれたぼくだって悪くない。
それなのに、どうしてこんなにも社会から取り残されてしまったような不安に苛まれなければいけないのか。誰もその答えを教えてはくれなかった。
自分自身にようやく“心の居場所”が見つかったのは、20代前半の頃。自身が「CODA」と呼ばれる存在だと知ったときのことだ。
それまで社会の“はみ出し者”だと思っていたぼくにとって、ひとつのラベルが与えられたことは、言葉にできないくらいの安心をもたらした。
その流れで出合った『コーダの世界』(医学書院)という一冊の書籍。
つづられていたのは、自分以外のCODAたちのリアルな声だった。
それから10年。ぼくは初めて『コーダの世界』を執筆した成蹊大学の准教授、澁谷智子さんに会いにいった。CODAの特性を教えてもらいながら、ぼくは心の奥に閉じ込めていた過去の傷跡と対峙することになった――。
親に頼ることができない、思春期のCODAたち
CODAの定義や彼らとの出会いについて澁谷さんに聞くなかで、次第に話題はCODAが抱える悩みへと移っていった。
学生時代、澁谷さんは初めて出会ったCODAのことを「かっこいい存在」だと思っていたという。「親に頼らず、精神的に自立をし、すべての事柄を自分で決断する。その姿が眩しく見えていたのだ」と。
でも、「それは、そうせざるを得ない状況に追い込まれていたからですよね」と続ける。
「時代によって差はありますが、特に昔は、ろう者と健聴者とでは得られる情報に格差がありました。いまのようにインターネットやSNSが発達していなかった頃は、聴こえない人が情報を集めることが困難だった。だから、CODAたちは親に代わって、自ら情報を集めるように動かざるを得なかったんです。それが私にはかっこよく見えた」
「でも、それって、やはり当事者にとっては、すごく苦しいことだとも思います。聴こえる親なら簡単に用意してくれるようなことも、望めない。親を頼りにしてはいけないから、子どもなのに大人のように振る舞う。健聴者にはわからない苦労があったはずです」
子どもだったぼくは、なにに苦しんでいたのか。
周囲からの偏見や差別もあったが、同じくらい、親に頼れないことがつらかった。
日々直面する悩みや課題をうまく伝えることができないことも一因だったと思う。たとえば、学校で起きた人間関係のトラブル、勉強面の悩み、様々な書類や手続き……。それらを聴こえない親に正確に伝えるには、高度な手話の能力が求められる。
まだ10代のぼくにとって、完璧な手話を使いこなすのはとても難しいことだった。知っている単語と単語を組み合わせ、あとは筆談と口話で補う。それで半分でも伝わればマシなほう。ときにはまったく意味が理解されないこともあった。
次第にぼくのなかには、「親には頼れない。自分でどうにかしなければならない」という想いが芽生えていった。
「私が出会ったCODAのなかには、進学で悩んだという人が多かったんです」と澁谷さんは話す。
「周囲の子たちは大学進学について親からアドバイスをもらっているのに、自分はそれが望めない。塾に行きたいと思っても親に相談することはできなくて、自分で塾を決めて『ここに通うからお金ちょうだい』と、お金だけ出してもらう。そんな経験をしてきたCODAたちは珍しくないんです」
ぼくも進学については一切相談しなかった。大学に行くべきかどうか迷ったときも、両親はぼくがなにで迷っているのかわからないようだった。
「やりたいようにすればいいよ。応援するから」。彼らの言葉は自由主義で寛容的なようだが、当時のぼくは、そんな言葉を望んでいなかった。
先の見えない人生に不安を覚える子どもに対して、道標を与えてほしかったのだ。
必要なのは、聴こえない親について話せる場所
けれど、それが叶わないことを実感していたぼくは、そのまま大学進学も諦めてしまった。
どうすればいいかわからない。
ぼくはそのままフリーターになった。その頃、まだライターという言葉も知らなかった。
「ろう者のなかには、進学することを明確にイメージできる人が少ないかもしれません。いまでこそ、ろう者が大学で学ぶことも珍しくなくなってきましたが、昔のろう者は『とにかく稼げる仕事に就きなさい』と教育されてきたんです。いわゆる職人のように技術を身につけて、たとえコミュニケーションがとれなくても食べていけるように、と」
「そんな教育を受けてきたろう者にとって、進学がどのように仕事に結びつくのかイメージしづらいのは仕方がないことでしょう」
それは事実だ。ぼくの父は塗装工として工場に勤務している。母は結婚するまで、縫製工場で働いていたと聞いた。ともに技術職だ。それは聴こえない人たちが“聴こえる社会”で生きていくために必要な選択だったのだろう。
「また、(障害があることで)プレッシャーがかかる教育を受けてきたろう者は、自分の子どもにはのびのびと育ってもらいたいと願う傾向もあります。ただし、それがCODAからすると、不満になりうる要因でもあるんです」
「自分の知らない世界、可能性について教えてもらいたいのに、それを示してくれない。だから必死で調べるんだけれども、周囲を見渡してみると、みんな親に相談できている。それを羨ましく思ったり、自分にはその環境がないんだと思ったりするんです」
10代は、学校での人間関係や勉強の悩みを抱える多感で不安定な時期だ。親に反発することもあれば、頼りたくなることもある。それはCODAに限らず、すべての子どもに言えること。けれど、CODAたちにはその頼れる先が少ない。
だからこそ、澁谷さんはいま中高生のCODAたちへの支援を強化すべきだと考えているという。
「私も親になって思うんですが、思春期の子たちって本当にさまざまなことを抱えてしまうんですよね。聴こえる親の子どもだってそうなんですから、CODAだったらなおさら複雑な想いにとらわれてしまいがちでしょう。そんな中高生のCODAたちに向けて、気持ちを棚卸しできる場所を作っていきたいと思っているんです」
「CODAに必要なのは、安心して自分のことを話せる場。たとえ、悩み苦しんでいたとしても、話を聞いてもらえるだけでだいぶ違いますよね。親の耳が聴こえないという事実をわかってくれる人、同じ状況に生まれた人と出会うことで、悩みすぎずに済むかもしれない。ひとりで抱えずに、次のステージへ行けるかもしれません」
けれど、CODAの家族は愛情に満ち溢れている
自分自身のことでもあるCODAの抱える悩みについて、あらためて客観的な話を聞いて、ぼくのなかには暗い気持ちが生まれた。あの頃、孤独だった自分の感情が湧き上がってくる。
誰にも悩みを共有できず、相談もできない。
ぼくは、ひとりで立って歩かなければならない。この先も、ずっと。
でも、本当は助けてもらいたい。
“ふつう”の子どものように、親に甘えて頼って、寄りかかりたい。
それなのに、どうして、お父さんもお母さんも、ぼくになにもしてくれないの?
そんなぼくの様子を見て、澁谷さんは諭すように口を開いた。
「でもね、CODAが小さいときの、CODAとろう者の親子関係ってとても理想的だと思うんです。ろう者は子どものことを考えて、さまざまな工夫を凝らしますし、週末になればいろんなところへ連れ出そうともする。アウトドアを楽しんでいるCODAとろう者の親子なんて、見ているととても幸せそうです」
「根底にあるのは、自分たちは耳が聴こえないからこそ、聴こえる子どもには目一杯幸せになってもらいたいというろう者の想いです」
澁谷さんの言葉を聞いて、ハッとした。
振り返ってみれば、ぼくの両親もさまざまな体験をさせてくれた。
父は外に出かけるのが大好きな人で、夏になれば毎週末のように虫捕りに連れていってくれた。山でカブトムシやクワガタをたくさん捕まえては、自宅に持ち帰る。夏休みには飼育日記をつけることが、恒例のイベントになっていた。
海沿いの街に住んでいて、釣りにもよく出かけた。アオイソメという釣り餌を怖がるぼくを見ては、父は笑いながら「大丈夫だよ」と代わりに餌をつけてくれた。
たくさん釣り上げた魚は、母がさばいて天ぷらにしてくれる。「こんなに釣ってすごいね」とうれしそうに笑い、何度もおかわりするぼくを微笑ましく見つめていた。あのとき食べた天ぷらほど美味しかったものは、ないと思う。
他にもきりがないくらい、両親との思い出がある。小学校低学年くらいまでは、彼らと過ごす日々がとても楽しくて仕方なかった。
両親は、ぼくの望みをなんだって叶えてくれた。
背景にあったのは、紛れもない愛情だった。耳が聴こえないという事実を引け目に感じることもあっただろう。でも、それを理由に子どもに哀しい想いをさせたくない。その強い決意が愛情という形になってぼくに注がれていたのだ。
気づけば、真正面に座っている澁谷さんの姿が歪んでいた。
インタビュー中にもかかわらず、ぼくは泣いていた。我慢しようと思っても、両目からこぼれ落ちる涙を止められない。
「CODAとろう者の家族の関係は、すごく楽しいものなんです。でも、CODAが成長するにつれて周囲の目を意識するようになってしまう。周囲からどう見られているか、敏感に反応するようになるんです」
「すると、楽しかったはずの親子関係が少しずつ変わっていく。CODAのなかに親にも話せない想いが膨らんでいって、すれ違いも増えていく」
そう、両親はぼくを愛してくれていた。
その愛情を遠ざけてしまったのは誰でもない、ぼく自身だ。「聴こえない」という事実を理由にして、彼らに対してひどいことばかりして傷つけた。
「でも、それはCODAのせいじゃない。たとえば、親につらく当たったとしても、親も理解しているはずです。CODAにはCODAの苦しみがあることを、ろうの親たちは痛いくらいわかっている」
「『コーダの世界』を執筆するにあたって話を聞かせてくれたCODAが、親との関係性を『戦友』と表現していました。自分も親も、“聴こえない”“伝わらない”という事実と、一緒に戦ってきた、と」
「ともに戦ってきた仲間なんだから、仮に傷つけてしまった過去があったとしても、わかり合える。気づけたのであれば、これからたくさん愛情を返していけばいいんです」
澁谷さんの話のおかげで、これまで見落としてきた大切なことに気づくことができた。
CODAのぼくは、決してひとりぼっちではなかったこと。
そして、ろうの両親からたくさんの愛情をもらって育ったこと――。
このたしかな事実は、この先もぼくの支えになると思う。
いまならば、胸を張って言えるだろう。
ぼくの両親は耳が聴こえません。でも、彼らはぼくを一生懸命愛してくれました。そしてぼくも、彼らのことを愛しています。
五十嵐 大
フリーランスのライター・編集者。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。
(編集:笹川かおり)
【五十嵐大さんCODA連載】