「メーク・イン・インディア(インドでものづくりを)」など、庶民にも分かりやすいスローガンを相次ぎ掲げて経済改革に取り組んでいるインド政府は10月、今度は「スワッチ・バーラト(クリーン・インディア)」と題したキャンペーンを新たにスタートさせた。読んで字のごとく「インドをキレイにしましょう」というわけで、モディ首相ら主要閣僚らが自らホウキを握り、スポーツ選手や映画スターなどのセレブとともに道路を掃き清めるパフォーマンスを繰り広げた。だが、インドの衛生環境を取り巻く問題は極めて複雑かつ深刻であり、のんきにホウキで地面を掃いているだけでは決して解決しない難題なのである。
「スワッチ・バーラト」は、国父マハトマ・ガンディーの生誕150周年となる2019年までに1.96兆ルピー(約3兆5000億円)を投資し、1億2000万家庭に専用トイレを設置。小中学校のトイレや公衆トイレなどを整備するとともに、衛生に関する啓蒙活動も展開するとしている。
6億人に専用トイレを
春の総選挙で10年ぶりに政権を奪回したインド人民党(BJP)率いる新政府はかねて、「ヒンドゥー寺院よりトイレを」「すべての家庭にトイレを」との公約を掲げてきた。政府がこれほどまでにトイレにこだわる背景にあるのが、インドの公衆衛生にとって著しい脅威となっている「屋外排泄」の恒常化だ。インドでは人口の約48%、およそ6億人が家に専用トイレを持っていない。これが農村ではなんと67%に達する。
田舎の田園地帯ならともかく、大都市のど真ん中にあるスラム周辺や川の土手、鉄道の線路敷などでも毎朝、後始末用の水を入れたペットボトルを片手に老若男女がぞろぞろと並んで一斉にしゃがみ込む光景が見られる。
こうした屋外排泄は、バクテリアの繁殖や地下水・農産物の汚染をもたらし、それが下痢、消化器系の疾病や子供の栄養不良など深刻な健康被害につながっている。世界保健機関(WHO)やユニセフ、インド保健当局の調査によると、インドが抱える劣悪な衛生環境によって、医療費の増大や生産性の低下などでGDP(国内総生産)の6.4%が費消されているという。人口が多いだけでなく、日本並みの人口密度があるインドにとって、公衆衛生は大きな社会問題となっている。
WHOなどによると、屋外で排泄している人の割合はアフガニスタンで15%、アフリカのコンゴでも8%しかいない。1人当たりGDPがインドの半分しかないバングラデシュでさえ、外で用を足す人がほとんどいないことを見ても、貧困だけが屋外排泄の背景ではないことがわかる。
専門家の分析によれば、インドではトイレの汲み取りやごみ処理はもっぱらダリット(カースト最下層の不可触民)、それも主に女性の仕事とされているため、多くの人がトイレのメンテナンス仕事を嫌がり、これがトイレの普及を妨げている大きな要因とされる。いまだにインド社会に残るカースト差別がトイレ問題の根底にある、というわけだ。
小中学校においては、学校にトイレがなかったり、個室が足りず男女共用だったりするため、思春期の女子生徒の通学意欲が阻害され、就学率の伸び悩みにつながっているとの指摘がある。トイレ問題は国の経済や教育にも大きな影を落としている。
人的資源開発(HRD)省(文部科学省に相当)では、今後学校における衛生教育を充実させていく、としているが、やはりハード面の整備が急がれることに変わりはない。
5年間で6億人分のトイレを設置するには、1世帯平均5人として、1年で2400万個、1日当たり約6万6000個のトイレを新設しなければならない。とてつもない大事業である。
ゴミが都市の新たな脅威に
また、都市部を中心としたゴミの問題も近年急速に注目されるようになった。デリーやムンバイなどの大都市では、幹線道路から一歩入った住宅地や商業地のど真ん中で、ゴミ収集用のコンテナからはみ出した生ゴミが散乱してハエが飛び交い異臭を放っているという光景を今も見ることができる。インドでは都市部を中心に年間6880万トンのゴミが発生。2047年にはこうしたゴミを処理するため1400平方キロの土地が必要になる、との試算もある。
しかも、急激な生活の高度化で、1日当たり6000トンものプラスチックゴミが排出されている。最高裁はすでに2000年にゴミの分別収集を命じているが、実際の規則や運用は各自治体に任されており、しかもそれが十分に順守されていないのが現状だ。
この点でも政府は新たな統一基準を設定し、リサイクルゴミや埋め立て処理できるゴミなどをより厳格に分別させる方針を打ち出している。
また、中国の「農民工」ほどではないが、インドでも農村から都市部への労働力の移動が徐々に拡大している。これが大都市にスラム化や交通渋滞、水やエネルギー消費の急増、犯罪の多発といった負荷をもたらすわけだが、都市の人口増加でゴミ問題もより深刻化しつつある。
さらには家庭や事業所などの下水設備も不十分で、下水の78%が特段処理されることなく直接河川に流れ込んでいる、といわれる。ガンジス川での沐浴で世界的に有名なヒンドゥー教の聖地バラナシーでも、人々が水浴びしたり洗顔している河畔の数キロ上流では、普通の生活排水が大量に流れ込んでいる。
もちろん、行政の無駄や怠慢といった側面も指摘されている。国勢調査データなどによると、政府が過去15年間に建設した、とされる2764万カ所のトイレのうち43%が勝手に倉庫などに転用されていたり、故障して使用不能となっているという。
民間企業が後押し
一方で明るい兆しもみえてきた。世界第5位の日用品・医薬品メーカーである英レキット・ベンキーザー(RB)のCEO(最高経営責任者)でインド出身のラケシュ・カプール氏は11月上旬、「スワッチ・バーラト」に関して「わが社にとって大きな変化をもたらす」と歓迎。普及活動などを支援するため10億ルピーの投資を約束した。もちろん、インド国民の衛生に対する関心が高まれば、「デットール」「ライゾール」ブランドの石鹸や消毒剤、トイレ用洗剤「ハーピック」など同社製品の需要が大きく伸びることを期待しての発言だが、今後もスワッチ・バーラトのキャンペーンには、内外の日用品メーカーや医薬品メーカーによる積極的な後押しが期待できる。
インドの経済発展はもちろん、民生向上においても大きなカギを握る衛生環境の改善には、人々の意識改革や行政の効率化といった様々な努力が必要となる。それは決して容易ではないし短期間で効果が出るものでもない。
しかし、経済発展や産業振興をもっぱら訴えてきたモディ政権が、人々の足元をみつめた細やかな政策を打ち出してきたことは注目に値する。この「スワッチ・バーラト」、我々が思う以上に浸透していくかもしれない。
緒方麻也
ジャーナリスト
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(2014年11月11日フォーサイトより転載)