なぜ私たちには中国が「脅威」にみえるのか 『日本と中国、「脱近代」の誘惑』著者、梶谷懐氏インタビュー

日本と中国で共通する「脱近代」で近代社会の矛盾を乗り超えようという発想が、日中間の関係悪化とそれに伴う思想的な混乱につながっている。
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安保法案の議論とともに、「中国の脅威」が注目されるようになった。しかし、私たちが触れる中国の情報は「共産党の共青団派と太子党の対立」「中国のバブルが崩壊寸前」といった政治のごたごたと経済崩壊論のみ。いったい、中国はどのような国なのだろうか。そして、なぜ日中関係は緊張しているのだろうか――『日本と中国「脱近代」の誘惑』で「近代化」を切り口に日中・東アジアの現在を分析した梶谷懐氏に話を伺った。(聞き手・構成/島田昌樹)

中国=巨人という単純化

――今日は、中国現代経済がご専門の梶谷さんにお話を伺います。『日本と中国「脱近代化」の誘惑』を執筆中に、今話題の『進撃の巨人』にハマっていたと伺いました。

そうなんです。本にはあとがきで少しだけ触れましたが、『進撃の巨人』は中華圏でも非常に人気で、香港の雨傘革命でも中国政府の支配・干渉のアイコンとして使われていました。

――「進撃の共産党」というやつですね。

日本では、中国共産党が巨人であるという単純な比喩として受け止められていましたが、これは非常に表面的な理解だと思っています。

『進撃の巨人』を読んでいくとわかるのですが、あれは外からやってきた絶対悪である巨人に立ち向かうという単純な話ではありません。実は、巨人と人間は入れ替え可能な存在で、人間の内部で長年その情報が隠されてきたことが分かります。情報が隠されることで秩序が保たれてきた。

そして物語は、現在巨人との戦いから、「巨人に関する知識を独占して既存の秩序を維持しようとする者たち」と「巨人に関する知識を得ることにより、自分たちがどう生きようか考える者たち」の人間同士の戦いにシフトしていきます。

――敵は外ではなく内側にいたのですね。

そうです。そういう物語の構造が、本書の中で「アジア的なもの」「単一権力社会」と表現している代々の中国政権の権力構造とそれに対抗しようとする若者たちの構図と類似しているように感じたんです。

私が本書を書こうとした一つのきっかけも、中国を「自分たちとは異質なもの」として単純化する姿勢に不満を感じていたからです。中国についてのテレビニュースでは、政治のごたごたと経済崩壊論ばかりが報道されます。「共産党の共青団派と太子党の対立」「中国のバブルが崩壊寸前」といった具合です。

他国への理解を深めるには、そこに住んでいる人々の考え方を含め、様々な情報をどうやって統合して捉えるかが重要なのですが、メディアだけでなく、専門家もその方法をなかなか教えてくれません。そのせいで「中国はなんとなく怖い」という漠然としたイメージが先行しがちです。

そこで、本書では、少し意外に思われるかも知れませんが、「脱近代」という言葉を一つの切り口に日本と中国について取り組んでみようと思いました。

「脱近代」ってなに?

――「脱近代」と言われてもなかなかピンと来ないのですが、なぜ、いま「脱近代」がキーワードなのでしょうか。

そもそも日本では「近代の超克」という言葉が使われはじめたのは戦前です。英米との対戦により欧米諸国と本格的に敵対することになった日本の当時の知識人たちは、今まで大きな影響を受けていた英国欧米の文化を「超克」しようとします。つまり、単に日本が戦争をしているのではなく、脱西洋化を目指す意義があると考えたわけです。

敗戦を迎え、「近代の超克」は「知識人の軍事主義への迎合」として厳しく糾弾されました。しかし、その後、「近代の超克」に込められた物質文明や西洋化を批判する姿勢は完全否定されるものではない、という問題提起が生まれていきます。

たしかに、近代は、完璧なシステムではありません。近代システムはリスクと暴力も生み出していきます。原発事故のように、近代のテクノロジーが生みだしたものが私たちに牙をむくこともあります。こうした危機感からか、近年「近代の超克」をテーマにした本がいくつも刊行されています(注1)。

――「近代の超克」がブームになっているのですね。三原じゅんこ議員が「八紘一宇」発言をしたことが象徴的であると本書では取り上げていますね。

三原議員は参議院の予算委員会の発言のなかで「八紘一宇」と発言したとき、多くの人が驚き、「歴史を勉強しろ」などと批判しました。しかし、彼女は後に自分のブログなどで、「自分だけ儲かればそれでいい」というグローバル資本主義の風潮を批判する姿勢を明らかにしています。その背景には、一種の「近代批判」「脱近代」の思考があったと考えるべきだと思います。

「脱近代」の文脈で一種の戦前回帰の動きが見られることは、自民党が戦後の民主主義や人権思想を否定する内容の憲法草案を公表し、閣僚の歴史認識に対して諸外国からの批判や警戒が相次ぐという現象とも無関係ではないと思っています。

――「脱近代」が現代日本の社会を表すキーワードであると。しかし、そこに中国はどのように関係しあっているのでしょうか。

日本と中国で共通するのは、近代化がもたらす矛盾やリスクが問題にされる際に、「近代以前の社会に学ぼう」という発想が必ず出てくる点です。西洋社会では近代のロジックやシステムが血肉化されているので、その問題点についてあくまで内在的に乗り越えようとします。それに対し、東アジアでは近代化が外来のものとして始まったので、それがちょっとうまくいかなくなると「われわれ本来の姿に帰ろう」という発想がどうしても出てくるわけです。

――「好きで選んだ道じゃない」ということですね。

中国では、「新左派」と呼ばれる人たちによって、儒教や「朝貢システム」などを持ち上げる独特のナショナリズムと結びつく形で「脱近代化」が提唱されています。

このような「脱近代」することで近代社会の矛盾を乗り超えようという発想が、日中間の関係悪化とそれに伴う思想的な混乱につながっていると私は考えています。「脱近代」はいわば「グローバル思想」や「西洋の介入」といった社会の外部に苦しさの原因を求めていると言えるわけですから。

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専門家以外ほとんど知らない日中の違い

――中国では「新左派」がナショナリズムとの親和性が高いのですね。日本の「右翼」「左翼」の感覚とは違うものがあるのでしょうか。

ネット上で愛国主義的で過激な書き込みをする人のことを日本では「ネット右翼」と言いますね。中国でも同じようなことをする「憤青」と呼ばれる人々がいます。彼らは時々「中国のネット右翼」と紹介されますが、正確な表現ではありません。

というのも、中国では国家が個人に優越すると考えるのは左派、すなわち左翼の発想だからです。西洋的/普遍的な価値観を取り入れて、個人の人権を重視し、ナショナリズムを警戒し国際協調を唱える、日本でいうリベラルな思想を持つ人々は、中国ではむしろ右派に分類されます。

経済学の松尾匡さんは、世界を「上」と「下」に分けて、「下」に味方するのが左翼。一方、世界を「ウチ」と「ソト」に分けて、「ウチ」に味方するのが右翼と定義しています。この分け方は中国には当てはまりません。なぜなら、中国の左派(翼)は西洋諸国のような「ソト」からの干渉を非常に嫌うからです。

――なぜこのような区分になっていったのでしょうか。

簡単に言うと共産党が政権を獲得する過程やその後の状況の影響を受けているためです。かつての中国では、「右派」は資本主義の誘惑に負けていて、西洋にかぶれて中国の独自色を失いかねない危険な思想だとされていました。現在でも、「右派」についてのこのような否定的なニュアンスがある程度残っており、リベラルな知識人を弾圧する際に用いられたりします。

――隣の国なのに、本を読むまで全然知りませんでした......。

中国問題が語られる際にこういった思想的な対立軸が語られることはほとんどないですよね。隣国とはいいながら、専門家以外の「共通知」としての蓄積が圧倒的に少ないように思います。

――日本と中国の右・左の勢力はどのように関わり合っているのでしょうか。

これは複雑な問題です。戦後日本の場合、左右のイデオロギー的対立が、中国をはじめとした「アジア」との関係性によってかなり規定されてきた側面があるからです。

たとえば、戦後日本の左翼は侵略戦争の贖罪意識もあって、社会主義革命を実現した中国を理想化していきます。しかし、現実の中国の統治は少数民族などマイノリティへの配慮を欠いたものでした。結果として、日本の左翼は長らく中国のマイノリティの問題には関心を持ってこなかった。

中国のマイノリティ勢力と結びついてきたのはアジア主義の伝統を持つ日本の右翼の方です。そもそも、欧米列強に対抗するためにアジアでまとまろうとする一方、中国に対しては強い警戒感を持つというのは戦前からのアジア主義の伝統です。現在の右翼も強大化した中国を警戒すべき「敵」と捉えていますよね。そこで、強大な中国によって抑圧されたマイノリティと結びつくのです。

しかし、これは近代的な人権思想に則ってマイノリティの権利を主張する考えとは基本的に異質なものだったと思います。

「中国の脅威」をめぐって

――現在、安保法案がニュースをにぎわせていますが、中国を意識したものであろうと多くの人が思っているのではないでしょうか。梶谷さんはいまの状況をどうみていますか。

難しい問題ですね。私は安全保障や軍事問題の専門家ではないので、本当のところはよく分かりません。中国が海洋的な進出を目指す結果、東シナ海や南シナ海で緊張が高まっているのは間違いないでしょう。これを潜在的な脅威と捉えることは間違いではないと思います。

しかし、その脅威の実態が正確に捉えられているかというと、必ずしもそうではありません。例えば、南沙諸島の埋め立てについての日本の報道は、中国とアメリカの対立を必要以上に強調している。

しかしこれにはバイアスがかかっていて、海外の報道や日本の中国専門家の見解では、アメリカにも中国側の言い分はかなり通じていて、過度に刺激する姿勢は避けており、決定的な対立になるリスクは低いというのが、むしろ主流の見方だと思います。

それよりも問題なのは、安保法制に関する議論をする際に、誰もが焦点は「中国の脅威」にどう対処するか、という問題だと思っているにもかかわらず、それが公式の場で表だって語られないことだと思います。

公式に語られない代わり、「事情通」のコメンテータによって中国の脅威に関する「真実」がまことしやかに語られる。これは健全な状況ではないと思います。参議院での審議で安倍総理が中国の海洋進出と安保法制の関連性を明言し、話題になりましたが。

――「みんな思っているのに首相が言わないのは、中国への配慮だろう」なんて声もありましたね。結局言ってしまいましたが......。どっちなんだよって戸惑いました。

中国の脅威というのは「わからないものへの恐怖」といった方がいいかもしれません。例えば、中国の外交姿勢は政府関係者にもよくわからない。だからどう付合ったらいいかもよくわからない。

中国の政治・外交姿勢には2つの顔があると思います。AIIBの参加の問題などもそうですが、ひとつには国際的なルールを遵守する近代国家としての側面があります。

その一方では、国内の統治や東アジアの国家間関係においては、しばしば前近代的に戻ったかのような振る舞いをする側面もあります。前者については、習近平政権になってからの人権派弁護士への弾圧や言論統制の強化が挙げられます。また後者については、言い方が適当かは分かりませんが、周辺国に対して強圧的な姿勢を見せる「帝国」のような印象を受ける場合もあります。

中国という存在が二重性を持つ、非常にわかりにくい国家なので、隣国としてそれに対峙しなければならない日本の対応も二重性を持ったものになり、掴みどころの無いものになってしまうのでしょう。

――やはり釈然としないのですが、なぜ中国が脅威だと、日本も「脱近代化」せざるを得なくなるのでしょうか。

分かりやすい理由としては、戦後一貫して、日本には中国とどう渡り合うかという政策的な議論が不在だったことが挙げられます。考えなくてよかったんですよ。戦後の対中政策の蓄積が貧弱なので、戦前のように中国と直接渡り合わなければならなくなると、オルタナティブなものがなかなか出てこない。

先日毎日新聞で自民党の憲法草案に関する特集を組んでいました(注2)。憲法学者の水島朝穂さんなどが出てきて、北朝鮮や中国の憲法に似ているのではないかと指摘しています。

確かにこの憲法草案には家族を大事にしなくてはいけない、家族は助け合わなくてはいけないといった道徳的価値観が盛り込まれていますし、言論の自由は公益や公の秩序に反しない限り尊重されるといった条文もあります。これらの特徴はいずれも中国などの社会主義憲法にもみられます。

しかし、こういったものが現れた原因は、日本国内だけにあるわけではありません。中国の台頭と、それを日本が潜在的な脅威だと受け止めるという構図を抜きにこの現象は語れません。ここでいう潜在的な脅威とは、単に軍事的に強大だ、ということだけではなく、その国家原理に西洋近代的な価値観とは明らかに異質なものが含まれている、という意味合いもあります。

たとえば、中国では共産党が憲法などの国家機構に優越しており、近代的な立憲主義をとっていません。憲法の前文には、国民は共産党の指導の下に社会主義の道を堅持すると、共産党は憲法に縛られないことが明記されています。

戦後日本がこれまで正しいと考えていた近代的な価値観を共有できるかどうかわからない巨大な国が隣に台頭してきて、みんなどう対応していいか分からない。その一つの「答え」として、自民党の憲法草案が出てきたのだと思います。

こういった前近代的な価値観に彩られた憲法を復活させてはいけない、という批判は、それ自体はもっともな反応と思います。ただ、問題は、そういう批判を行う側に「では台頭する中国とどう対峙するのか」という点に関するビジョンがないために、対立する陣営との間にまったく議論がかみ合っていないことです。

――かみ合っていない?

お互い、相手が「前近代的だ」「アジア的だ」というレッテルを貼りあって批判しているだけになりがちだ、という現状を指しています。

言論空間を、改憲派/護憲派で分けてみましょう。護憲派は改憲派に対して「戦前のような超国家主義に戻ろうとしている」と批判します。一方、改憲派は護憲派に対して「相手は近代的な価値観を共有しない中国に利用されている」と感じています。

つまり、お互いがそれぞれの異質で前近代的な「アジア的」なるものを勝手に想定し、そのイメージを相手に投影して批判しているだけなのです。そんな中で冷静な議論はできそうもありません。その意味で私たちは「アジア的」なものから生じる「ねじれ」から逃れられないことをまず自覚する必要がありそうです。

「希望は民間にあり」

――「脱近代」が、日中関係を読み解くキーワードであることが分かってきました。苦しさの原因を「外部」に求めようとする思想がどんどん強くなっており、日中間の対立もそれに伴い強くなる。この対立を乗り越えるためにはどうしたらよいのでしょうか。

今回の安保法制でもわかるように、国家の安全保障を理由に、法の支配や政府の説明責任がないがしろにされている感覚を持った人が多いのではないでしょうか。このままでは、ナショナリズムのぶつかり合いによって、国家が権力を増していくという悪循環が生じかねません。

では、この対立をどう乗り越えればいいのか。ヒントとなりそうな考え方として、中国には「民間思潮」という言葉があります。ノーベル平和賞を受賞した劉暁波が述べた「希望は民間にあり」という言葉もこの言葉と深い関わりを持ちます。

日本で「民間」という言葉は、「政府ではない」といった程度の意味合いしかありません。しかし、国家が権力を強く持っている中国では、「民間」は国家の対抗勢力にならない場合においてのみ許される緊張感のあるものです。

――中国では民間企業が成長しているとよく聞きますが、それでも緊張感があるのでしょうか。

そうですね。たとえば、ネット上での企業間取引をサポートする事業から発展したアリババもそのひとつで、一時期、政府に対抗して言論の自由を実現するのではないかという期待がありました。しかし、現実ではアリババはすぐに政府と結びついてしまいました。

中国には山寨(さんさい)携帯と呼ばれるコピー製品を作っている民間の弱小メーカーがたくさんあって、それらは政府と全然関係のないところで活動しています。しかし、そういった企業が大きくなって力を持つと政府に対抗して自主的なルールを作ろうとするより、政府に迎合して利益を確保しようとする傾向があります。NGOもたくさんあるのですが、多くは政府に取り込まれてしまっています。

特に今は弾圧が厳しくなっていて、政府に対抗しようとする動きはことごとく潰されていっています。中国は権力がすべて国家に繋がっているため国家の力が強く、それ以外のところがルールを作ったり主張したりするのはすごく大変です。

それでも、民間が動くことで中国社会が変わっていく可能性があるという意味が「希望は民間にあり」という言葉には込められています。

日本の左翼的、リベラル的な発想は、そもそも権力に対抗する民衆の立場に立つことから出発していたはずです。たとえば、安全保障についても「国家の安全保障」に対する「人間の安全保障」という考え方が提唱されてきました。人間の安全を脅かすのは外敵だけでなく、自身が所属する国家の脅威を受けることもあるという発想です。

この意味で日中のリベラル思想は「権力」に対する考え方で同じ視点に立てるはずですが、残念ながら両者の結びつきはあまり強くありません。

ただ、少しずつですが状況は変わりつつあります。著名な人権派弁護士の浦志強氏が拘束され、騒動挑発罪などの疑いで逮捕されると、それに抗議する署名運動が、日本でもすぐに立ち上がりました。最近の200名を超す人権派弁護士の拘束に関しては、日本弁護士連合会が抗議する声明を出しています。

この本ではささやかな問題提起をしたに過ぎませんが、日中の「国家」と「民間」に関する議論を深めることで、こういった変化の後押しをする一助になればと思っています。

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著者/訳者:梶谷懐

出版社:太田出版( 2015-06-06 )

定価:¥ 2,376

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単行本(ソフトカバー) ( 360 ページ )

ISBN-10 : 477831476X

ISBN-13 : 9784778314767

梶谷懐(かじたに・かい)

現代中国経済論

神戸大学大学院経済学研究科教授。博士(経済学)。専門は現代中国の財政・金融。2001年、神戸大学大学院経済学研究科博士課程修了。神戸学院大学経済学部准教授などを経て、2014年より現職。主な著書に『現代中国の財政金融システム:グローバル化と中央-地方関係の経済学』(名古屋大学出版会、 2011年)、『「壁と卵」の現代中国論』(人文書院、2011年)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑』(太田出版、2015年)などがある

数多の困難に次々と直面している現代社会。しかし、それを語り解決するための言葉は圧倒的に不足しています。

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(2015年8月12日「SYNODOS」より転載)