子どもを見捨てない社会~仏映画「太陽のめざめ」から考える~

第68回カンヌ国際映画祭のオープニング作品「太陽のめざめ」というフランス映画を観る機会があった。
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ネグレクト環境に生きた少年の葛藤

先日、第68回カンヌ国際映画祭のオープニング作品「太陽のめざめ」(日本では8月6日(土)より公開)というフランス映画を観る機会があった。親からの十分な愛情を受けることなく、ネグレクト環境の中で育てられた主人公の少年と、司法や更生の場で彼を支え続ける人々の姿が極めて真摯に描かれた作品だった。

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映画の中では、愛情に飢え、抑えきれない衝動を抱えた少年の心の痛みが切実なまでに描写されている。母親から何度も見捨てられ、愛情の片鱗をみつけてはかすかな希望を抱かずにはいれない少年の姿からは、人間が愛されることを希求してやまない存在であることと、それゆえに深まる苦悩が痛いほどに伝わってくる。登場人物たちが愛と憎しみ、希望と絶望という、相反する感情に揺さぶられる姿が非常に繊細にとらえられていて、映画制作に携わった人々の妥協のない、そして暖かいまなざしが伝わってくるものであった。

国際社会が約束したこと

この映画を観ていると、「子どもの権利条約」と「持続可能な開発目標(SDGs)」という2つの国際的なコミットメントを思い起こす。

すべての子どもは本来、生きる、育つ、守られる、参加する「子どもの権利」を有している。このことは1989年に採択された「国連子どもの権利条約」において国際社会が確認したことであり、すべての子どもが尊厳を持って生き成長していけるための、国や社会の責任が示されている。この主人公のように、家庭や地域がその機能を失いかけたときに、その子どもの権利を回復し保障していくには誰のどんな力が必要なのかという問いに、私たちはどう向き合っていけるだろうか。

加えて、昨年合意された2030年までの「持続可能な開発目標」では、「誰一人取り残さない(leave no one behind) 」とのかけ声のもと、社会の隅においやられ最も支援の届きにくい人々を優先することを謳ったものとなった。この映像の登場人物たちは、子どもの権利を奪われ、周囲が支援することをあきらめ見放したくなるような、まさに底辺で「取り残された」子どもたちである。国際社会は本気でこういった子どもたちに向きあう約束をしたばかりだということを、ぜひ多くの人にも知ってほしい。

子どもを育てきれない家庭、目をそらす社会

この作品が扱うテーマとその素材は、決して遠い世界のことでない。虐待、ネグレクト、貧困、ひとり親の子育て、薬物依存、家族の共依存、暴力、性、十代の妊娠と出産、さらにはそれらの世代間連鎖など、我が国にも共通する課題が浮かび上がってくる。子どもや家族を支える制度や仕組みの脆弱さ、マンパワー不足は指摘されて久しく、支援現場での行き詰まりや関係者の燃え尽きも軽視できない現実となっている。

一方、虐待事件などがメディアで取沙汰されると、親や関係者のバッシングに終始しがちで、子育てに悩む養育者をさらに追い詰め孤立させかねない事態がしばしば生じている。確かに、体罰やネグレクトに象徴される子ども虐待は、子どもの今と将来に深い苦痛をもたらす深刻な問題である。しかしその根絶のためには、問題を生んだ背景やその土壌に目を向け、予防や立ち直りにこそ十分な時間と予算とエネルギーを向けることが何より大切であるはずだ。

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疲弊と限界に立ちすくむとき

この映画は、福祉や教育、少年少女の更生に携わる人々の深い愛情と、ゆるぎない献身的な努力に、心からの賞賛と希望を贈るものである。そして、自身が過酷なおいたちを持ち、親や教師や社会との間に大きな葛藤を抱えて生き抜いてきた虐待のサバイバーや、今まさに大きな壁に突き当たり立ちすくんでいる少年少女たちの人生にまっすぐな光を当てる作品でもあると思う。誰しも不完全で、どの制度も完璧ではありえない。失敗や限界に何度も直面しながら、それでも私たちの社会が子どもたちを支えていく責任を持つということ、そして私たち一人一人がその役割をどのように担うべきなのかということを、しばし立ち止まって考えてみる機会となるだろう。

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公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン

チャイルド・セーフガーディング推進マネージャー

金谷直子