私の本当の名前は鈴木綾ではない。
かっこいいペンネームを考えようと思ったけど、ごく普通のありふれた名前にした。
22歳の上京、シェアハウス暮らし、彼氏との関係、働く女性の話。この連載で紹介する話はすべて実話にもとづいている。
個人が特定されるのを避けるため、小説として書いた。
もしかしたら、あなたも同じような経験を目の当たりにしたかもしれない。
ありふれた女性の、ちょっと変わった人生経験を書いてみた。
◇◇◇
その夜のあと、健太とメールし続けた。
彼のスタートアップのアイディアを議論し、私が仕事上で知り合ったエンジェルインベスターとインキュベーターの担当者を紹介してあげて、ピッチの資料も見てあげた。彼の同僚も3人参加することになった。
健太の夢はどんどん具体的な形になっていった。そして、ついにエンジェルインベスターからお金をもらうことができた。それが決まった翌日健太は会社をやめ、スタートアップの社長として人生をはじめた。
普段はメールでやりとりをしていたが、健太は夜飲んでいたときによく酔っ払って私にメールを送ってきた。
「今何をしている?」「今渋谷で飲んでるけど、忙しくなければ来て」
メールが来るのは大体10時すぎで、私がもう布団に入っていた時間。「もう寝てるから」と断るのがこのみんなが寝ない東京で若干かっこわるいと思っていたのでいつも「ごめん、まだ仕事なの」か「ごめん、今日は接待なのよ」と断った。
私が電気を消したあとに健太と交換したSMSはちょっと危ないけど刺激的でとても楽しかったけど、渋谷のビルの屋上でキスをしたときのような圧倒的な欲望を感じなかった。やっぱり、数ヶ月間色々やりとりをした結果彼の弱いところに気づいて冷めた目で見られるようになった。
色んなところから彼の彼女の悪口が耳に届いた。彼女が相当な「悪女」だったのになかなか別れられなかったらしい。
それに、健太に会ったときも彼と仕事と関係ないメールをしていたときもいつも彼はお酒が入っていた。というか、昼の時間に健太に会ったことがなかった。あんなにお酒に頼る人はあまりいい彼氏になると思えなかった。
それでも、健太はとても楽しくて面白い人だと思っていたし、彼が私の仕事、私を人間として高く評価してくれたこともとても嬉しかった。
太郎の家に泊まっていたある日の夜、また健太からメールが来た。22時すぎだったけど太郎は仕事の電話に出ていたので、健太とメールをした。メールに夢中になって太郎の電話が終わったのに気づかなかったら太郎にまた怒られた。
いつもと同じように太郎は仕事で疲れてイライラしていた。私がメールであろうが仕事であろうが、彼以外のことに夢中になったらすぐ怒る。だけどそんなことで喧嘩してもしょうがないと思ったので私が謝った。太郎は仕事がまだ残っていたので私はさきに寝た。
怒鳴り声に起こされた。外は少し明るくなっていたから朝5時ぐらいかな、と推測した。
「綾は浮気してんの?浮気をしてんの?」と太郎が怒鳴っていた。
眠くて太郎が何を言っていたか最初分からなかった。
「メールぜんぶ見たよ!メール!浮気してんでしょ。ケンタってやつだれ?」
太郎がどうやって健太のメールをみたか、最初理解できなかった。
仕事で使うときがたまにあったから私のプライベートの携帯にはパスワードがかかっていた。太郎が私のパスワードを知ってたってこと?
それとも私が入れるのを見て暗記したってこと?
健太とのメールがバレたことは別として、太郎が私の携帯を勝手に見たという事実がショックで、言葉が出てこなかった。
「いや、浮気なんかしてない」
太郎の怒りは収まらなかった。
「綾のために妻と離婚することに決めたよ。綾を一生大事にしようと思ってる。バカ!」
「そんなことないよ、太郎。聞いて!」と布団から立ち上がって太郎の腕を掴んだ。
なんと言えばいいか分からなかった。
健太のことが好きだったのも事実だったし、いまだにメールをしていたというも事実だったし、健太に会ったから太郎との関係に対する疑問が自分のなかで大きくなったのも事実だったけど、そうした心のかすかな動きをどう言葉にすればいい?
太郎が腕を離して憤然とした足取りでキッチンに入った。
「綾のばか!」と太郎が泣きながら叫んだ。前の日の夜に使ったお皿を床になげつけた。割れるお皿の音が怖かった。
「綾のばか!僕にどんだけ恥をかかせるつもりかよ」
そして太郎の目がカウンターにおいてあった私が作ってあげたスクラップブックにいった。私達の写真がいっぱい入っていた。太郎がスクラップブックを荒っぽく手に取ってページを破り取って、お皿と床に投げつけて足で踏んだ。
怖くてショックすぎて涙も言葉も出なかったから太郎と目を合わさずにしゃがんでお皿のかけらを片付けようとした。
「綾は僕より皿の方が大事か?ばか!」
私が片付けるのをやめて、じっと床で正座をした。
「綾が何も言わないってことはもう認めてるんだね。バイバイ」と太郎が家を出た。
車のエンジンが聞こえた。
放心状態だった。お皿を片付けて、引き出しで見つけた透明テープでスクラップブックを直した。太郎がいつ戻るか分からなかったから出かけない方がいいかと思った。彼が戻ったときに私がいなかったら、もっと怒られるだろう、と思った。
片付けが終わったら朝7時だったけど、布団に入って家電のように体のスイッチをオフにした。
夕方ぐらいに太郎に起こされた。
「ごめんなさい。もうその人に二度と会わない」
太郎が私を強く抱きしめた。私にはもう何の気力もなかったから彼が求めるままにカラダをあずけた。
その後、二人で太郎の車でコンビニに行ってカップラーメンを買ってきた。太郎は私の手をずっと握りしめていた。