仏週刊紙襲撃事件 -欧州の価値観の普遍性を問う

欧州社会の「表現や言論の自由」をめぐり、「イスラム教過激派(原理主義者?)が何らかの抗議をする・時に暴力行為となる」事件に、ここ10年ほど目を奪われてきた。
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People hold placards reading in French 'weep' and 'I am Charlie' during a rally in Lyon, central-eastern France, on January 7, 2015, following an attack by unknown gunmen on the offices of the satirical weekly, Charlie Hebdo. France's Muslim leadership sharply condemned the shooting at the Paris satirical weekly that left at least 12 people dead as a 'barbaric' attack and an assault on press freedom and democracy. FP PHOTO / JEFF PACHOUD (Photo credit should read JEFF PACHOUD/AFP/Getty Images)
JEFF PACHOUD via Getty Images

 追加:先ほど(12日)、フランス24(テレビ局)を見ていたら、議論のコーナーがあり、昨日のデモを自己批判していた。いろいろな意見が出ていたが、すでに「表現の自由」の話ではなくなっている。

 欧州の中のムスリム(イスラム教徒)の存在、非ムスリムの国民の存在、「フランスは世俗国家だ」という点を「押し付けている」のではないかという批判などなど。含蓄に富むコーナーだった。

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 7日、週刊紙「シャルリ・エブド」(「週刊チャーリー」)のパリ本社で、風刺画家などを含む12人が殺害される事件が起きた。ここ数日、このニュースをずっと追っている。

 これを「イスラム過激主義者によるテロ」とひとまずくくるとしても、この事件やその影響・余波についてはいろいろと思うことがありすぎてどう書いたらいいのか分からない状況にいる。

 欧州社会の「表現や言論の自由」をめぐり、「イスラム教過激派(原理主義者?)が何らかの抗議をする・時に暴力行為となる」事件に、ここ10年ほど目を奪われてきた。

 自分自身がこの問題に注目するようになったきっかけは、2004年のオランダで発生した映画監督殺害事件である。白昼、イスラム教を批判する映画を作った監督がイスラム教過激派の若い男性に殺害された。大変なことが起きたなと思った。

 その後、大きなものとしてはデンマーク風刺画事件があった。

 その後もまたいろいろあるのだけれども、デンマーク事件より以上に衝撃が大きいかもしれないのが、今回のフランス風刺画事件であろう。

 この事件はいろいろな面から解釈、論評ができるのだけれども、私が常々感じてきたのは、欧州(西欧)は表現や言論の自由も含め、現在私たちが生きている(西欧化された)世界を形作るさまざまな価値観の基になる思想を提供してきたけれども、

 「果たして一体どこまで普遍的な正当性があるのだろうか?」

 という問いが心の中でふくらむようになった。

 具体的に言えば、一連の風刺画事件で、例えばデンマークやドイツの新聞の論者たちは「すべてを批判・風刺の対象とする」「表現の自由はなんとしても守るべきもの」というスタンスであった。表現の自由は「欧州社会の」かつ「私たち」の基本であり、歴史から育まれたものであり・・・と。これに対し、「おや?」と思ったのである。

 「欧州社会」って、誰を含むのだろう?「私たち」とは誰か?と疑問がわくようになった。「自分たちの宗教を過度に茶化すのはいやだ」という人がもし社会の中にいたら、その人たちはすでにある規範にどうしても従わないとダメなのだろうか?

 つまるところ、これは「欧州」の話でなくてもなんでもいいのだけれども、「社会の大部分=マジョリティ=の人は、少数派=マイノリティー=の人の考えや感情に思いをはせて、自分たち自身を変えるという発想はないのかな」、と。この疑問がわいてくると、「表現の自由は譲れないことだから・・・」と主張する上記の論者たちの言い方はどうなのか、と思うようになった。

 といって、「表現の自由などの価値観をマイノリティーの考えを考慮して、曲げるべきだ!」と思っているわけではない。もちろん、表現や言論の自由は大切だ。

 しかし、単に、「自分の信念は絶対に曲げない」と繰り返されると、対決姿勢がますますきつくなるのではないかなとか、「俺のいうことを文句を言わずに、聞けよ・だれが今の自由な世界を作ったと思っているんだ!」と強制されてしまう気もするのである。

 フランスで表現・言論の自由を守ることの重要さも、私が住む英国とは比べ物にならないぐらい強い、歴史や文化の一部であることも理解できる(理論的には)。

 それでも、風刺画関連の事件を追っているうちに、フランスだけではなくて、オランダでも、デンマークでもドイツでも、「われわれのやり方はこうなんだ。だから、これに従うべきだ」という、社会のマジョリティーとしての無言の圧力を感じたのである。

 つまるところ、欧州とは何なのか、将来はどうなるのかを考える、重要な事件の1つになるのだろうと思う、今回の殺害事件は。

 欧州のマイノリティーの一員として生きる自分にとっても、非常に切実な問題である。

 共同通信の9日配信版ニュースに、以下の原稿を書いた。ネット版では流れないそうなので、許可を得て転載したい。

 この中では「移民」という視点から書いている。もっと別の面もたくさんあるのだけれど―(テロの話や、中東の話、フランスの独自の歴史、表現の自由の意味など)。

仏週刊紙襲撃事件

歩みよりはないのか

 ―市民に強いる風刺も

 欧州最大のムスリム人口(全体の7・5%、約500万人)を抱えるフランスで、衝撃的な事件が7日、発生した。

 風刺週刊紙「シャルリ・エブド」のパリ本社に複数の人物が押し入り、銃を乱射して編集長、風刺画家、警官を含む12人を殺害したのである。犯人らは「(イスラム教の)神は偉大なり」などと叫んだと言われ、イスラム教過激派と関連するテロとの見方が広がっている。

 あらゆることを風刺の対象とするシャルリ・エブドは、2006年、デンマークの新聞ユランズ・ポステンに掲載されて多くのイスラム教徒の怒りをかった預言者ムハンマドの風刺画を再掲載している(ムハンマドの姿を描くことさえイスラム教は「冒涜的」とする)。2011年にはパロディ版シャリア(イスラム法)を巻頭特集にし、本社ビルに火炎瓶を投げ込まれた。

 イスラム教やムハンマドをモチーフとした言論及び芸術表現について制作者・表現者が威嚇や殺害されたり、世界的な抗議デモに発展するケースはこれまでにもあった。もっとも著名な例は英作家サルマン・ラシディが小説「悪魔の詩」(1988年)を発表し、イランの宗教指導者から死刑宣告を受けた騒動だが、2004年にはオランダの映画監督でイスラム教の批判者がイスラム教過激主義に染まったとされる若い男性に殺害されている。

 「イスラム教を批判しにくい」現状を問題視したユランズ・ポステン紙がイスラム教をテーマにした風刺画数点を同紙に掲載したのは05年だ。翌年、他国の複数の媒体が風刺画の一部を再掲載。インターネット時代に情報はあっという間に広がった。特に問題視されたのがムハンマドの頭部に爆弾がついた風刺画で、イスラム教をテロ行為と直接結び付けたとして、イスラム教徒の市民の間に大きな反発を引き起こした。問題の風刺画を実際に見たことがないと思われる多くの人が抗議デモに参加した。

 今回の事件を受けて、オランダの極右政治家ヘールト・ウィルダース氏は「欧州の文化的価値を共有しない人は欧州から出て行くべきだ」と、英国のテレビで語った(8日)。「欧州で生まれ育った人はどうするのか?」と司会者に聞かれ、「それでも出て行って欲しい」―。この言葉をどう解釈すればいいのか。

 宗教改革を経験した欧州社会にとって、絶対的な権威の象徴だった教会組織をも批判できる自由は妥協できない価値観だ。しかし、「すべてが風刺の対象になるべき」という主張を多様な宗教、人種で構成されるようになった欧州市民に強いる部分はないだろうか。「もっと節度のある表現もあってしかるべきではなかったか」という論調を欧州の複数のメディアの一部で目にするようになったのは変化の兆しに見える

 仏テレビ局「フランス24」の討論番組(7日)で、イスラム教徒の地方議員マジド・メサウデネ氏は「シャルリ・エブドは風刺の度合いが許容範囲を超えていると思う」と指摘する一方で、「そんな風刺を世の中に出す権利は認める。同時に、『許容範囲を超える風刺だ』という自分の意見も社会に存在する権利があると思う」と述べた。

 メサウデネ氏も、ウィルダース氏も同じ欧州市民だ。異なる見解を持つ欧州市民同士が同等の立場で互いに譲り合い、歩み寄ってこそ、未来が開けるのではないかと思う。(終)

(2015年1月12日「小林恭子の英国メディア・ウオッチ」より転載)