「やりたいことがある」という言葉って気をつけないといけない、と思うようになりました。最近ではいろんな人に「やりたいことがあるって素敵ですね」と言われるようになったのですが、それに対してなんて返していいかわからなくなってきています。というのも、このコメントに対していくつかの反応が沸き起こるからです。
この人は僕を「やりたいことをしいる人」として認識しているということについて。
たしかに、「財政削減などの影響によりアウトカムベースになってきている英国のユースワークと比べて、包括的で純粋に活動できている北欧型のユースワークを学びたい」という、くそ真面目な理由でスウェーデン留学を3年前にしました。「目的意識」がこのように明確であるがゆえに、留学中もインターンシップをいくつか経験し、ユースワークに関連するテーマで現地の大学で学びました。以下の記事でも、原体験の大切さがいかにして留学生活を充実させるかについて書きました。
そして再び、ストックホルムに戻ってきて同じテーマで研究を続けています。自身でも意識していますし、外からもそう見えているかもしれません。おかげで、修士課程の課題や論文のテーマも絞り込んでできているので、とてもやりやすいです。
しかし、それでも「やりたいことをやっている人」と認識されることに違和感を感じるのは何故なのでしょうか。
自分を「やりたいことがない」という人は恐らく、「やりたいことがある人は自分を持っており、人生の方向性がはっきりしている」という神話を信じきっているのではないでしょうか。そして、「それに比べて自分は、やりたいことがなくて、軸がないから、将来も不安だ」、となっているのではないでしょうか。
仮にこれを単純化してまとめるとすると以下のようになります。
やりたいことがある人
- 目的意識がある
- 何かをやるには、必ず理由がある
- 一貫性がある
- 将来やりたい仕事が明確
- 強い信念を持つ
- 計画的
やりたいことがない人
- 自分がない
- やりたいことがないから、社会的評判から適当にクラスや進路、留学先を選ぶ
- 一貫性のない選択
- 将来やりたい仕事が不明
- 信念がない
- 刹那的
大雑把な分け方ですが、これを基準にすると正直、僕自身はこの2つのカテゴリのちょうど真ん中に位置すると思います。というか大抵の人がこの2つの人物像の間で揺れている思います。それこそ振り子のように。
僕の場合でいうならば、スウェーデン留学へきたときの目標は明確でしたし、これからもさらにスウェーデンのユースワーク、若者政策の研究をしていきたいです。(特に最近はその歴史的発展を追うことをまずはキッチリやりたいと思っています。)またベルリンで働いていた若者政策のシンクタンクでの影響から、若者政策そのものについて深めたいとも思っています。
一方で、じゃあ修士が終わったらどうするかと問われると、正直わかりません。日本に帰るかも、ヨーロッパにいるかはたまた別の国にいくかも地元に戻るかもわかりません。今はとりあえず仕事を探してみて見つけたとこで働ければどこでもいいと思っています。仕事は、現場よりかは政策レベルで、若者政策系もそうですがジャーナリズムに興味もあったりごちゃごちゃしています。
正直わからんですが、あえてそれでもいいかなって思っています。
仕事を始めてわかったのですが、自分が興味がない仕事でも続けていれば、徐々にどこかに楽しみや、やりがいを見出したりして、いつの間にかそれが自分の生活の中心となり、仕事を始める前に求めていた自分の像から気づかないうちに逸れていくということです。故に、
環境が求める自分のすがたに、定期的にノイズを忍び込ませること
が大事なんだと思います。これは東浩紀さんも著書「弱いつながり 検索ワードを探す旅」
からの一節で、文脈は異なりますが僕はこの言葉は自分のやりたいことやキャリアを「固定化」させないためにも大事だと思いました。ノイズをいれることで、「やっぱこれは自分の本当のやりたいことじゃないな」と自省することができます。これは意識していないと簡単に忘れ去られてしまうことだなとも思いました。
本題に戻ると、僕は、この綺麗にわかれた「やりたいことがある人像」と「やりたいことがない人像」は疑ってみる必要があると思うのです。そんなに白黒はっきりできるものではありません。誰もがある部分ではやりたいことが明確でも、ある部分ではない場合もありますし、そうである時期も、ときところにより異なるわけです。なので一概に、「やりたいことがあっていいですね!」なんて言えないのです。外からはそうみえても、本人は実は迷っていたり、本当はこれがやりたいんだけどな、と思っている場合もあるからです。外からは見えないノイズがそこにはあるんじゃないでしょうか。
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