分断社会と向き合うー「自分とは関係ないこと」が加速するこの世界でー(前編)

カンボジアで国際NGOとして活動した時に、ある出来事で衝撃を受けました。

2003年、イラク戦争当時、私は小学校4年生だった。

戦況がどうであったのか、どの国とどの国が戦っていたのかなど、ほとんどのことは記憶にないが、一つだけ強烈に覚えていることがある。

それは、人々が殺し合う緊迫した状況を、現場からレポートしていた女性の姿であった。

2012年、ジャーナリストとしてシリアを取材中、複数の銃弾が彼女を永遠に沈黙させた。後にその女性の名は山本美香ということを知る。彼女が遺してきたものを、むさぼるように読み続けた。

私がジャーナリストになりたいと思う1つのきっかけになったといっても過言ではない。

その都度、心の奥がぐらっと揺れるような感覚を覚えた。

他にも、ベトナム戦争で散ったカメラマン、沢田教一。

カンボジア・ポル・ポト大虐殺の最中に亡くなったとされるカメラマン、一ノ瀬泰造など、歴史に名を残した多くのジャーナリストたちの魂がこもった文字や写真、そして映像が、私という人間を創ってきた。

私は、彼らと同じように戦争が起きている現場の最前線に立ちたいと思っているわけではない。

彼らの本心は本人たちにしかわからないが、私には、人が人を殺し合うという愚劣で理不尽に満ち溢れた社会を映し出すことによって、自らは一片も傷つくことなく自国の人々を駒のように扱う権力者に、彼らは命をかけて反抗しているように見えた。

その彼らの生き様と彼らが映し出す市井の人々の叫びが、年齢を重ねても変わらず私の側にあった。

彼らによって届けられたそれらの国の状況は今どうなっているのか、その答えは現場にしかないだろう。

そう思い、これまで打ち込んできた野球から身を離し、国際NGOのスタッフとしてカンボジアに飛んだ。それなのに、いや、それだからなのか、私は伝える仕事を選ばなかった。

当時の私の「社会に役に立つ仕事」の選択肢は国際NGOしかなかった。正確に言えば、それしか知らなかったのかもしれない。

しかし、私の求めていた答えはカンボジアにはなかった。「こうすれば世界は平和になる」という方程式の答えが。

「自分には関係のないこと」とどう向き合うか

カンボジアで活動しはじめて、5ヶ月が経とうとしていた、ある日のこと。

NGOが雇用していた一人の女の子が亡くなった。まだ10代だっただろうか。

まだまだ知らなかったことやもの、新しく出会う人、これから先いろいろなことが開かれていく世界を見ずして、彼女は自らの病と闘った末、天国へと旅立ってしまった。

目の前で、冷たく、白くなっていく女の子を前に、ただお線香をあげ手を合わせている自分。女の子の命を救うどころか、一度も話しすらしたこともなかった。

その子の名前も、歳も、好きなことも、嫌いなことも、何1つ知らなかった。

こみ上げてきた怒りや哀しみといった感情の矛先は自分自身に向かっていた。

私は国際協力ごっこをしにきたのか。

鬱々とした気分で、自宅に戻った。その帰り道は何も覚えていない。

私が何者であれば、亡くなった彼女は今も笑えていたのだろうか?

そんな葛藤もあったが、それよりも強いショックだったのは、私自身、彼女の「死」が、この社会において「仕方のないことでは?」と考えてしまったことであった。

「そうだ、日本でも幼くして亡くなる子どもはたくさんいる。人間は死ぬものだ。それはもう仕方のないことなのだ」

「自分には関係のないこと」として目を背けたがる自分をはっきりと認識していた。

私はもう何に対しても抗うことができないとまで思うようになったまま、日本に帰国する日を迎えた。

私はよそものでしかなかったのだろう。

じりじりとした灼熱の太陽とじめじめした空気の匂いを感じながら、そう思った。

当時の自分は、この国で再び内戦が起こる可能性も示唆されていることすら知らなかったのだから。

ふと道に目をやると、相変わらずユニセフやポリスのシャツを着た一般人がバイクを走らせている。

後編に続く