1970年代後半のカンボジア旧ポル・ポト政権による大量虐殺を裁く特別法廷の控訴審が11月23日、プノンペンで開かれた。特別法廷は、元ポル・ポト派ナンバー2のヌオン・チア元人民代表議会議長(90)とキュー・サムファン元国家幹部会議長(85)の控訴を棄却。両被告の終身刑が確定した。ポル・ポト派の元最高幹部に対する確定判決は初めて。ガーディアンなどが伝えた。
特別法廷は二審制で、ヌオン・チア被告とキュー・サムファン被告は、首都プノンペンから200万人を強制移住させた「人道に対する罪」や大量虐殺、戦争犯罪などの罪で2010年に起訴された。両被告は「指示を出す立場になかった」と一貫して無罪を主張したが、特別法廷は「大規模で重大」とし、一審判決の終身刑を「適当」とした。
裁判は現在、審理を迅速に進めるために、起訴された内容ごとに分割し、それぞれに判決を出す形式をとっている。両被告をめぐっては、ベトナム人や少数民族チャム人の虐殺、強制結婚・強姦、内部粛清等の大量虐殺など別の罪状での審理が続いている。
■国民の4分の1が犠牲「ポル・ポト政権」とは?
ポル・ポト元首相
ベトナム戦争終結後の1976年、カンボジアでは政治勢力「クメール・ルージュ」を率いた親中国のポル・ポト氏が首相に就任し、「民主カンプチア」政府が成立した。ポル・ポト政権は、農業を基盤とする閉鎖的な共産主義社会の建設を目指す、極端な政策を強行。都市の住民を農村に強制移住させ、政策に反対する人々を多数処刑した。わずか3年8カ月あまりで、少なくとも当時の国民の4分の1に当たる約170万人が殺害されたという。
その後カンボジアでは反ポル・ポト派の台頭、ベトナムや中国の介入もあり、内戦に拍車がかかった。
ポル・ポト政権による大量虐殺の犠牲者の頭蓋骨
1991年、パリ和平協定でカンボジアの和平が成立し、長きにわたる内戦が終結した。一方でポル・ポト政権期の大量虐殺が問題視され、2006年に国連とカンボジア政府は、当時の政権幹部らの罪を問う特別法廷を合同で設置した。ただカンボジア政府は、フン・セン首相ら元ポル・ポト派が政府内にいることもあり、特別法廷に積極的ではなかった。ポル・ポト元首相も98年に死去している。
政権崩壊から37年が経過する中、ポル・ポト派の元最高幹部に対する確定判決が初めて下され、裁判は大きな節目を迎えた。その一方、関係者の高齢化が進み、裁判を通じた真相究明がどこまで進むのか懸念する声もでている。
日本政府は1990年代の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)時代から、カンボジアの和平・復興を支援している。特別法廷については2006年の裁判開始以来、各国支援の約32%に当たる約8512万ドル(法廷の国際側に約6858万ドル,国内側に約1654万ドル)を拠出する最大の支援国となっている。