参議院で審議中の安保法案、政府・与党は来週前半の採決をめざしているとの報道があります。幾多の問題点が指摘され、全国で反対デモが多発しているにもかかわらず、法案を取り下げる気配はありません。
今日は、ひとりの「武術家の端くれ」として、「武」というものを論じてみたいと思います。
私は中国武術を17年ほどやっており、一時期は毎年上海や青島を訪れて、高名な武術家の先生方から教えをいただきました。
いまでは、地元・板橋区高島平で「高島平カンフークラブ」を主催し、毎週日曜日夜に太極拳や伝統拳術をお教えしています。
私の指導方針としては、実戦的な用法や身法をできるだけ伝えるようにしています。
「実際にどう使うのか」がわからないと、本質が理解できず、表面的な形だけのものになりがちだからです。
しかし、「実際に使える技」を教えているということは、ともすれば危険を伴います。
ですから、私はいつもこう教えます。
「絶対に使うな」と。
「原則として使うな」とか「いざというときに使え」とか、そのような例外条件は一切なしです。
「絶対に使うな」と教えます。
「実際に使える技」を教えながら、同時に「絶対に使うな」と教えているという、矛盾です。
また、しばしばこのようにも教えています。
「腰に差した刀は、絶対に抜いてはならない。柄に手をかけてもいけない。
しかし、刀はいつ抜いてもよいように、常に研ぎ澄ませておかなくてはならない」
これが「武の矛盾」です。
世には暴力に訴える愚か者が必ずいます。
暴力の行使に対抗する方法は、実力に依る以外にありません。
だから、人類すべてが成長し賢くなり、暴力に訴える愚か者が一人もいなくなるその日まで、「武」は必要とされる宿命にあります。
ですが、「武」と「暴力」は何が違うのか?
その境界は紙一重であり、たやすく「武」は暴力に転じます。
「武」とは、このギリギリの境界線上にあるものです。
使えない「武」に意味はないので、いつでもピカピカに磨いておかなくてはなりません。
しかし、ピカピカに磨いているのでつい自慢したくなって、刀を抜いて見せびらかせてしまうと、見せられたほうは「すわ、暴力を振るわれるのか?」と思い、こちらも刀の柄に手をかけることになってしまいます。
己の愚かさ・心の弱さが、必要ないはずの闘争状態を作り出してしまうのです。
「武」を扱う者に求められるのは、強力な力を持ちながら一切それを使わない、そういうものを持っていることをおくびにも出さない、そのようなことを可能とする「叡智」と「心の強さ」です。
いまの政治の現状は、このような「武の理想」からはかけ離れています。
相手方はなにやら得意気に武力をひけらかしていますが、それに煽られて、その愚かな相手と同じことをやろうとしている。
慎重に相手と対話をする方法を模索するどころか、わざわざ相手を煽るような言動を繰り返している。
さらに、強力なその相手と一戦交えることになったときには、より強力な「親分」に頼る予定なので、親分の言うことは憲法違反だろうがなんだろうが丸呑みです。
「武」とは0か1かの二元論ではないのです。
ギリギリの境界線上の「ゆらぎ」の中に武の本質があります。
国の命運を担う政治家には、本来、ギリギリまで引きつけて見極める「胆力」と「覚悟」が必要なはずです。
それなのに、安倍首相は日本で何の議論もされてないうちから、米連邦議会で「この夏までに安保法案を必ず成立させる」と、わざわざ期限というおまけまでつけて約束してきました。
安倍首相は「責任者である自分が判断する」と語ります。
しかし、このような安倍首相に、そんなギリギリの判断ができるのでしょうか。
中国の脅威以前に、自分自身の武力に振り回されて、無用な争いを呼びこむ可能性のほうがよほど高いのではないだろうか。
私にはそう思えてならないのです。
中妻じょうた 板橋区議会議員