ブラジルは、現在WHO(世界保健機関)が制定したハンセン病制圧目標(有病率が人口1万人あたり1人未満)を達成していない唯一の国です。2000年には4.3だった有病率は2010年代には1.0に近づき、現在は少しずつ減少しています。
ブラジルがなかなか目標を達成できない理由の第一に挙げられるのは、国土が広大で、アクセスの難しい地域があるため、患者発見活動そのものが困難であることです。
蔓延地域の中にも、サイレントエリアと呼ばれる何年も新規患者が発見されないエリアがありますが、そこは患者が存在しないわけではなく、単に調査がなされていないだけなのです。
私が訪問した蔓延地域であるマットグロッソ州にある村では、半日の調査で6人もの患者が発見されました。
2003年に就任したルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領(当時)が、ブラジル大統領としては百年ぶりにハンセン病施設を訪問し、「(ハンセン病対策に関して)私たち(政府)は眠っていた」と自己批判したことを契機として、ブラジルのハンセン病への取り組みが活性化しました。
ただ、地方分権が進んだブラジルでは、中央政府の政策がなかなか地方の隅々までは浸透しません。
また制度的にも皮膚科の専門医がハンセン病の診断を行い、薬の処方も専門医が行うという方法が定着していました。これが専門医のアクセスが困難な地域の多いブラジルでは、制圧活動の足枷となっていました。しかし、現在は、専門医以外でも診断が可能となりつつあります。
ブラジルで特筆すべきなのは、現役の有名歌手や俳優が、ボランティアでハンセン病患者の世話や制圧キャンペーンにかかわってきたことです。
国民的歌手のネイ・マトグロッソも、ハンセン病制圧キャンペーンに積極的に協力しています。女優で歌手でもあるエルケ・マラビーヤもその一人でした。彼女は女優として活躍するかたわら、ハンセン病の施設を訪問するなどの精力的な活動を続けていましたが、残念なことに2016年に逝去されました。
エルケさんやネイさんのように社会的に大きな影響力を持つ人たちの活動は、ハンセン病に対する誤解や偏見をなくすためにも大きな力となっています。
ブラジルでユニークな活動を行ってきたのがハンセン病回復者組織のMORHANです。ブラジルでは1930年代に軽症者を含む全ての患者を強制的に隔離収容する法律が制定されました。
1949年には、これに加えて患者の子どもたちを親から切り離す制度が強化されました。患者は自分の子どもを施設に連れていくことが許されず、多くの子どもが孤児院に引き取られ、親と生き別れになってしまいました。
法律は1962年に廃止されましたが(サンパウロ州のみ1967年まで隔離を継続)、実質的には1980年まで強制隔離は継続したのです。
MORHANは、1981年に設立されたNGOで、当初は政府のハンセン病患者、回復者への非人道的な隔離政策に対して補償を求め、生活改善を訴えていました。その運動を受け、当時のルーラ大統領が、隔離政策で被害にあった回復者への補償法案に署名したのは2007年のことでした。
遅すぎるという印象ですが、ブラジルは世界でも稀な、国側からその責任を認めて謝罪し、補償を行った国でもあるのです。
MORHANはまた、1988年からテレハンセンと呼ばれる無料電話相談を全国レベルで実施し、年間平均約3000件(多い年には1万件以上)の問い合わせに応じています。
身近に相談できる相手のいない人でも遠隔地からアクセスでき、匿名でも相談できるというものです。問い合わせのほぼ半数が患者や回復者からのもので、かつてはおもに診断方法や薬の入手などに関する質問でした。
近年では、補償についての質問や、隔離政策下で親から引き離された子どもたちからの親を捜して欲しいという依頼が増えています。MORHANでは、データベースの作成やDNA鑑定によって、失われた親子のつながりを取り戻す活動も行っています。
近いうちにブラジルから制圧目標達成のニュースが届けられるかもしれません。制圧は喫緊の課題ですが、しかし焦りは禁物です。目標はあくまでも数字の達成ではなく、一人でも多くの人々が医学的にも社会的にも、ハンセン病の苦しみから解放されることなのですから。