2005年7月7日に起きたロンドン同時爆破テロから10年。ハフポストUK版ではシリーズ「爆破テロを超えて」を掲載している。イギリスがこのテロ以来、どのように変わってきたのかについて、インタビューやブログ、特集記事、独自調査からなるシリーズを連載している。
10年前の今朝、ミリアム・ハイマンさんは父親に電話し、自分が安全であることを伝えました。彼女は、大事件が発生したとみられていた、地下鉄のキングス・クロス駅から避難しました。彼女はタヴィストック広場経由のバスに乗る決断をしました。彼女は31歳で、幅広い交友関係を生かし、フリーの写真エディターを務めていました。彼女はまたアーティストでした。私たちは昨晩、ロンドン市庁舎で彼女の作品の展示会を催しました。彼女は、渦巻き模様の抽象的なパステル調で、光彩と色彩が豊かな作品を描くことが好きでした。妹のエスターさんは1つの作品を指し示しました。エスターさんは、その作品には特別な意味があると信じていました。
エスターさんは「(姉は)それをトンネルの終わりの光と呼んでいました」と話しました。それは確かに、薄暗いトンネルを示していました。トンネルの下には複数の通り道があり、中央には薄気味悪い光が照っていました。私はそれを見つめました。そして、それが、ロンドンのトンネルで発生した、あの朝の出来事のように思い起こされました。
最初に、「電力サージ」(電圧の急上昇)についての奇妙な報告がありました。そして、事件の規模についてゆっくりと理解していきました。ハイマンさんを乗せたバスについてのニュースも入ってきました。私は、タヴィストック広場からそんなに遠くない場所で、雑誌の編集をしていました。そして、ホルボーン通りに自転車で向かいました。群衆の唖然(あぜん)とした無表情ぶりを覚えています。また、何が起きたのか分からずに今の場所にとどまるべきか、あるいは仕事を続けるよう努めるかどうかで、困惑する人々を覚えています。今日、私たちは、そうしたロンドンの通勤客を偲んでいます。ハイマンさんを含め、亡くなった52人の方々です。彼らの才能や希望、愛着や愛情に思いを馳せます。それらは残酷なまでに急に終わらされたのです。私はハイマンさんの写真を見ると、ふつふつと怒りがこみ上げてくることを認めなければなりません。それに抗することはできません。テロリストたちの全くの冷淡さや自己中心主義、残酷さには困惑と怒りの感情がごっちゃになって再び沸き起こります。多くの人がきっと、私と同じように、そう感じていると思います。
私たちは10年後の今、もちろん重要な安らぎの時を迎えています。彼らがどんなに苦痛を起こそうとも、彼らがどんな傷跡を残そうとも、彼らは真の目標を達成するという点では失敗しました。彼らは、ロンドンを偉大な都市にならしめている根本的なことを変えることはできませんでした。ロンドンは過去10年間、より国際的になり、よりエキサイティングで、よりダイナミックな都市になりました。世界の「首都」であることは明白です。ロンドンは今もなお、希望の場所であり、人々が夢を叶えるためにやってくる場所です。7月7日の爆破テロの後も、私たちは前進したのです。そして立派なオリンピックやパラリンピックを開催したのです。
ロンドンは昨年、世界ナンバーワンの観光地となりました。しかし、それだけでは十分でありません。私たちが守るべきものを軽蔑するよう教育を受け、私たちを傷つけようとする人々がいまだに存在することを忘れてはなりません。私たちは、彼らに勝たせるわけにいきません。戦いは、若者の心の中で始まっています。ハイマンさんの母親のメイビスさんは、ミリアム・ハイマン基金というチャリティーを設置しました。インドで目の病院の設立や、ロンドンの11歳から14歳までの若者の反過激派化のために資金を拠出しています。文字通り、そして、比喩的にも、子供たちの目を開眼させるよう、支援しています。子供たちは、その支援を受けるに値するのです。
この記事はハフポストUK版に掲載されたものを翻訳しました。