野心的な著作である。本書は「代議制民主主義」というテーマを通じて、比較政治学、政治思想史、政治経済学、現代日本政治論の研究成果を広く渉猟し、長期的な視野でその未来を展望する。論旨は明快だが、読者にも相応の覚悟と一定の知識を要求する1冊である。
『代議制民主主義』待鳥聡史著/中公新書
通常、代議制民主主義を論じる書物は、現代において政治家や政党が民意に十分に応えることができずにいるため、民主主義に対する有権者の不満が高まっている......というような語り口で始まる。その後、直接民主主義と代議制民主主義の関係、議院内閣制と大統領制の比較などを論じ、最後は選挙や政党のあり方についての改革の展望で締めくくられる、というのが一般的であろう。
本書もまた、その王道をはずしていない。とはいえ、この本において圧巻であるのは、それを論じるために著者が示す長期的な座標軸の存在である。本書はまず、自由主義と民主主義の緊張関係という近代政治思想をめぐる根本問題に言及する。
著者によれば、自由主義が「多様な考え方や利害関心を持つ人々の代表者(エリート)が相互に競争し、過剰な権力行使を抑制し合うことを重視する」のに対し、民主主義は「有権者の意思(民意)が政策決定に反映されることを」追求する(このような自由主義観は、多分にマディソン――アメリカ第4代大統領にして『ザ・フェデラリスト』の著者――的である)。
難しいのは、自由主義と民主主義が直ちに整合的であるとは限らないことだ。自由主義の重視する権力分立やエリート間の競争と、民主主義の求める民意の反映とは本来別個の価値であり、場合によっては互いにブレーキをかけることもある。その際、議会制がいわば両者の結節点にあることがポイントとなる。身分制議会に由来する議会は、元々は自由主義に起源を持つが、選挙権の拡大を通じて民主主義とも密接に関わるようになっている。それだけに、異なった要求がきしみ合う焦点ともなりやすい。
それが破綻しなかったのは、19世紀以来の社会経済的エリートが率いる右派(自由主義・保守)と、20世紀に台頭した大衆が主役の左派(社会民主主義・革新)の対抗図式が政党レベルで安定し、第2次大戦後の福祉国家をめぐるコンセンサスもあって両者の間にバランスがとれたからである。問題は、そのような条件が1989年以降、崩れ出したことにあると著者は論じる。
冷戦の終焉と福祉国家の行き詰まり、さらに有権者の価値観の変容は、従来型の政党対立を無効にし、無党派層の拡大をもたらした。結果として有権者は、政治にグローバル化への有効な対応を期待すると同時に、民意に対するより適切な反応も求めている。とはいえ、双方の欲求はしばしば矛盾し、ここに代議制民主主義の難局が発生する。
以上の見通しの下に、本書は代議制民主主義の現状と未來を展望するが、その際に、著者が鍵とするのが「委任と責任の連鎖関係」である。有権者は政治家に政策決定を、政治家は官僚に政策実施を委任するが、同時にその結果についての説明責任も求める。重要なのは、有権者が委任と責任の連鎖関係を通じて、政治権力を「使いこなす」ことであると著者は説く。政治家や官僚を個別的に批判するより、巧みに誘因のメカニズムを構築することによって、それぞれの主体に一定の自律性をもたせつつ、適切にコントロールすることが肝要であるというのが本書のメッセージとなる。
このような視点から、選挙制度(小選挙区制、比例代表制など)と執政制度(大統領制、議院内閣制など)について、自由主義/民主主義の視点から比較検討する部分が本書の精髄であるが、もはや予定の紙幅を超えつつある。ここでは、執政制度においてとくに、そして選挙制度についてもある程度、改革の方向性について収斂が見られると本書が指摘している点と、1990年代以来の日本の制度改革について、参議院や地方制度について不十分な部分が残るものの、概ね肯定的な評価を与えている点にのみ言及しておきたい。
政治の現状に安易に絶望せず、粘り強く向き合っていく勇気を与えてくれる本である。
宇野重規
1967年生れ。1996年東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。東京大学社会科学研究所教授。専攻は政治思想史、政治哲学。著書に『政治哲学へ―現代フランスとの対話』(東京大学出版会、渋沢・クローデル賞ルイ・ヴィトン特別賞)、『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社、サントリー学芸賞)、『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書)、共編著に『希望学[1]』『希望学[4]』(ともに東京大学出版会)などがある。
(2015年1月2日フォーサイトより転載)