1――欧州で進む現金利用の制限
ビットコインが登場した際に、これが各国の中央銀行・政府が発行してきた紙幣に取って代わることになるのではないかという議論が沸き起こった。
世界的にみるとビットコインのような仮想通貨の利用は拡大してはいるが、これまでのところでは従来からある紙幣を駆逐してしまうというほどのことは起こっていない。
しかし、これまで紙幣を発行してきた中央銀行・政府自体に、紙幣を廃止してしまおうという動きが見られるようになっている。
5月に欧州中央銀行(ECB)は、2018年末で500ユーロ紙幣の発行を停止することを決めた。公式にはマネーロンダリング(資金洗浄)に悪用されているとの懸念が高まっており、テロや犯罪の資金源を絶つことが狙いとされている。
しかし、500ユーロ札の発行停止の真の狙いは、高額取引から現金を排除し、将来的には現金を廃止してしまおうという壮大な計画の第一歩ではないかと言われている。
欧州では、現金による高額取引を制限している国も少なくない。スウェーデンやデンマークなど北欧の国では急速に現金の利用が減っている。
クレジットカードやデビットカードによる支払が普及して、スウェーデンでは市中にある現金の残高自体が減少を続けている。一方、ドイツでは現金志向が強く、ドイツ国民は500ユーロ紙幣の発行停止に対して強く抵抗したそうだ。
2――日本では現金残高が大幅増加
日本では、キャッシュレス化が進むと言うよりは、少なくとも見かけ上は現金への依存が高まっている。
紙幣や硬貨といった現金と経済規模の関係を見ると、1990年頃まではほぼ一定の比率だったが、その後は急速に高まっており最近では経済規模(名目GDP)の2割程度に達している。
現金による高額取引が禁止されている欧州とは違って、日本国内では家電製品の購入の際にかなりの金額でも現金で支払を行なうことも少なくない。
治安が良いので、多額の現金を持ち歩くことに対する不安が少ないということもあるのだろう。
しかし、現金志向が強いとは言うものの、日本でも電子マネーによる支払は急速に増え、普段の生活ではキャッシュレス化が進んでいる。
かつてはコンサートやスポーツの試合が終わると駅の券売機には長蛇の列ができだが、最近はこうした光景も見かけなくなった。多くの人がSuicaやPASMO、関西ならICOCAといった交通系の電子マネーを使って、切符を購入することなく自動改札を利用するようになったからだ。
スーパーやコンビニの買い物でも電子マネーで支払いをしたり、紙幣に加えてポイントを使うことで小銭の支払を避けたりすることは増えている。
2007年に消費税率を引き上げた際に、お釣りの1円玉が不足するという予想から、1円玉の発行枚数を大幅に増やしたものの、現実にはむしろ流通量は減少してしまった。日本では欧州のように高額紙幣が使われなくなるのではなく、どちらかといえば少額の取引で硬貨が使われなくなるという形で現金の使用が減っている。
財布が小銭でいっぱいになるのは重いし、財布が膨らんでポケットなどに入れにくい。スタイルを気にする若者は小銭を持つことを嫌がるのだそうだ。
余談だが、認知症の兆候として、財布が小銭でいっぱいになっていないかどうかは、重要なチェック項目だそうだ。買い物の際に必要な小銭をさっと出せなくなると、毎回高額紙幣を出してお釣りをもらうようになるからだそうである。
3――1万円札の運命
「国家は破綻する~金融危機の800年」(日経BP社 2011年刊)で、金融危機は繰り返し起きるという警告を発したケネス・ロゴフ・ハーバード大学教授は、近著(*1)で、現金の利用は違法取引や脱税を助長するとして、高額紙幣から現金を徐々に廃止していくことを提言している。
確かに犯罪映画やスパイ映画で悪者が取引を行うシーンに出てくるのは、アタッシュケース一杯に詰まった1万円札の束だ。
違法取引の決済をするのに、最終的に自分の口座にお金を振り込ませなくては使えないというのでは、警察に調べられれば簡単に捕まってしまう。
現金を廃止することには、欧州や日本ではじまったマイナス金利政策を強化することができるようになるという効果もある。昔の教科書には金利はマイナスにならないと書いてあったが、それは現金があるということが理由だった。
預貯金にマイナス金利を適用しようとしても、皆が預貯金を引き出して現金で保有するので、大幅なマイナス金利の実現は難しいからだ。この問題については、筆者は他で詳しく論じているのでそちらを参考にしていただきたい。(http://toyokeizai.net/articles/-/137512)
現在の日本では、支払の際に日銀券(紙幣)は無制限に受け取らなくてはならないことになっているが、日本でも欧州のように高額の現金による支払が制限されるようになるかも知れない。
こうした政策がなくても、スマホによる決済や各種の電子マネー、仮想通貨の利用拡大によって、現金の利用は自然に衰退していく可能性が高いだろう。
バブル景気が華やかなころには、1万円札よりももっと高額な紙幣の発行が必要だという議論もあった。しかし、もう5万円札や10万円札といった超高額が発行されることはなく、むしろ1万円札が消えてしまう日がそのうちやってくるのではないだろうか。
関連レポート
(*1) Rogoff, Kenneth S. "The Curse of Cash", Princeton University Press (2016)
(2016年9月30日「エコノミストの眼」より転載)
株式会社ニッセイ基礎研究所
専務理事