少子化社会における「子どもの価値」を再考する
かつて「貧乏人の子沢山」という言葉があった。
「貧乏」だから「子沢山」なのか、「子沢山」だから「貧乏」なのか、その関係はよくわからない。しかし、近年では子どもの養育費、特に教育コストが高くなり、「平均理想子ども数」と「平均予定子ども数」との間に乖離が生じている(*1)。
誰もが理想とする数の子どもを持てるわけではなく、むしろ、現代の「子沢山」は、「金持ち」の象徴にもみえるのである。
今日、子どもを巡る環境が大きく変化した。かつて、人々は確実に子孫を残すため沢山の子どもをもうけたが、乳幼児の死亡率が高く、成人する子どもは大きく減った。いわゆる「多産多死」の時代だ。
その後、医療技術や衛生状態が大幅に改善され、「多産少死」の時代になり、人口の膨張期を迎えた。そして近年、経済的理由などから子どもの数を抑制する「少産少死」の時代になり、少子・高齢化および人口減少が進展しているのである。
また、昔の子どもはインフォーマルな働き手だった。長男・長女は親に替わって弟や妹の世話をし、親の仕事の手伝いもした。「子沢山」とは家庭内の働き手が多いことでもあり、子どもは家族の暮らしの一部を支えていたのである。
しかし、今日では、産業構造や就業構造の変化に伴い、子どもは消費の主体になり、家庭内の働き手としての役割を失った。「子沢山」は世帯収入の一助ではなく、世帯支出が増すことを意味し、「貧乏人の子沢山」は「金持ちの子沢山」へと変容したのかもしれない。
柏木惠子著「子どもという価値」(中公新書、2001年)には、子どもには「実用的価値」と「精神的価値」があり、国により「子どもの価値」は普遍的ではないと述べられている。
日本では「精神的価値」が重視された結果、子どもは「お金のかかる存在」とさえみなされるようになった。また、子どもは「生まれる」ものから「産む」ものとなり、出産は人間の意志と判断にもとづく行為になったというのだ。
私は、昔のように子どもがインフォーマルな働き手になることが、一概に悪いことだとは思わない。児童労働による搾取・虐待はあってはならないが、子どもが消費の主体としてだけでなく、家事や育児をはじめ親の手伝いをすることなどは、将来、社会に出てゆく上でも非常に重要なことだ。
"はたらく"とは、傍(はた)を楽(らく)にする行為とも言われるが、子どももその重要な主体であるべきだろう。
深刻になる少子化を解消するためには、『子どもを持つという選択が、未来の希望につながる』、今こそ、そんな新たな「子どもの価値」を創造するときだ。
「明日は今日よりよくなる」という"希望"のメッセージを多くの人々に送ることが、いまの政治に課せられた大きな役割ではないだろうか。
*1 「第14回出生動向調査」(国立社会保障・人口問題研究所、2010年)によると、「平均理想子ども数」は2.42人、実際に夫婦が持つつもりの子どもの数「平均予定子ども数」は2.07人で、理由は、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が、60.4%と最多になっている。
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株式会社ニッセイ基礎研究所
社会研究部 主任研究員
(2014年9月16日「研究員の眼」より転載)