消えた情報格差
20数年前にエコノミストの仕事を始めたころ、短観やGDPなど重要統計が発表になる日には日本銀行や経済企画庁(現在の内閣府)には公表資料をできるだけ早く入手するために行列ができた。
テレビや新聞などのマスコミで伝えられる情報量には限りがあり、統計の詳細な情報を入手するには、直接資料を取りに行くか、月報などの冊子が刊行されるのを待つしかなかった。
世の中に大きな情報の格差があり、エコノミストの仕事のかなりの部分は、入手した発表資料を整理して伝えることだった。研究所の所在地も重要で、地方のシンクタンクは情報の入手に苦労したのはもちろん、資料を早く入手して分析するためには官公庁からの距離がものを言うこともあった。
現在では、公表される資料はすべてインターネット上に掲載され、誰でも入手することができる。インターネットの回線速度差による影響は多少あるだろうが、入手のタイミングも同時で、情報入手の格差は無くなってしまった。政府が公表した情報を伝えるということにはあまり価値が無くなってしまい、エコノミストの仕事は注目すべき情報を判断して選別することや、情報を分析することに中心が移ってきた。
あふれる情報
情報化社会という言葉は1969年には既に社会的に認知されていたというから、実際に我々がその影響を肌身で感じるまでには、随分と時間がかかっている。しかし、多くの人は、情報通信技術の進歩が、これほど社会を変えるとは予想していなかったに違いない。
情報通信・処理に関連する装置の性能が著しい進歩を遂げたことによって、誰でもこれまでとは桁違いに多くのデータを入手することができるようになった。企業でもかつては販売データを集めることは大変なことだったが、その気になれば山の様なデータを安価に集めることができるようになった。ビッグデータの時代と言われる所以である。
個人でも、スマホの中には自分がかけたり受けたりした通話の記録が延々と残っているし、送受信したメールの中身も削除しない限りずっと残っている。むしろ逆に、インターネット上にいつまでも情報が残ってしまうことの方が問題となり、情報の削除を求めて忘れられる権利が主張されるようになった。
情報を入手することが困難で情報自体に大きな価値があった時代から、あふれるほどの情報が簡単に手に入る時代になったのである。
ビッグデータの時代
ある企業が他の企業との競争上優位に立つための手法はいろいろある。日本企業は、既存の技術に改良や工夫を加えて品質を向上させることや、生産効率を上げて製品をより安く作るということを得意としてきた。
R&Dに注力して新製品を生み出すということも重要な経営戦略の一つだ。どこで、誰が、どんな商品を欲しがっているのかを知るということは、昔からマーケティングという形で行われていたのだから、特段新しいアイデアというわけではない。
しかし、収集・分析できるデータの量が桁違いに増え、結果が分かるまでの時間が著しく短くなったことで、データから得られる情報の質が大きく変わり、大きな価値を生む可能性が高まった。
ビッグデータと聞くと、統計学やコンピュータの高度に専門的な技術や知識が必要で、普通の人には縁遠いものに思える。しかし、そうした高度に技術的な部分は専門家に頼むということも可能だ。
大量のデータの入手や分析が簡単にできるようになったことで、大きな価値を持つようになったのは、データを集めることでも分析する技術でもない。ビッグデータの時代とは、こんなことを調べてみれば経営に役立つのではないかという企業家のアイデアの価値がますます高くなるという時代ではないだろうか。
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株式会社ニッセイ基礎研究所
経済研究部 専務理事
(2014年11月27日「エコノミストの眼」より転載)