なぜなら、私が19歳のシングルマザーだったから。

全く、私は何を考えていたんでしょう。全然わかりません。近い将来の仕事も全然無かったのに、19歳でひとりで、赤ちゃんを持つなんて――。

全く、私は何を考えていたんでしょう。全然わかりません。近い将来の仕事も全然無かったのに、19歳でひとりで、赤ちゃんを持つなんて――。しかし私は、とにかく産んで育てようと決めました。すべて上手くいくだろう、とただ願うしかありませんでした。なぜなら、この美しい小さな人間は、私を必要としていて、たとえ私自身がまだ子供だったとしても、責任のある大人になるために、私もまた彼女が必要だったからです。

この赤ちゃんは、生きるために私を頼りにしている。それだけで、赤ちゃんとふたりで、正しい方向へ進んで行く力が沸きました。そうたしかに、私には道標が必要でした。1970年代のニューヨーク州ブロンクスで、貧困とともに子供を育てていくことは、決して簡単なことではなかったのです。まず第一に、私は麻薬中毒の母の子として生まれました。父は仕事人間で――多分だから父は、目の前の課題に向き合わなかったのしょう。言うまでもありませんが、私は親元を離れて、養護施設に入所する気にはなりませんでした。自分への一番のアドバイスは「両親が私にすることと、正反対のことをする」ということだけ。幸いなことに、それは効果がありました。

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1990年の娘と私

娘を生んで3カ月後、私は幸運にも親友の縁を通じて、広告の仕事に就くことができました。怖かったけど、ふたりの家庭を築くために、働かなければならないことはわかっていましたから。私の社会経済的な背景(加えて、ティーンエイジャーの母親で、高校卒業の教育レベル)は、心の奥底にひっかかって、同僚たちと一緒にいることが、なんだか不適切であるかのように感じられたものした。でも、その気持ちのおかげで、彼らに遅れをとらないよう、できる限り学び、成長できるように、一生懸命努力できました。

娘に、私のことを誇りに思ってもらう必要がありました。たとえ私と娘のふたりしかいなくても「大丈夫」だとわかってもらう必要があったのです。すごく若かったけれど、私は良いロール・モデルとなり、身のまわりの困難や、貧困の連鎖から抜け出す必要があることがわかっていました。うまくいくかはわからなかったけれど、私は頑張ったのです。

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娘を育てながら、何とかやりくりしようとしていた間、私の仕事は3つに増えました。20代のとき、日中は広告会社で働きながら、金曜と土曜の夜は、バー「ショット・ガール」のバーテンドレス(女性バーテンダー)になりました。日曜はパン屋の店員をして、そのうえ、毎回サッカーの試合にも間に合って出場していたんですよ。

とくにバーテン・ドレスは、娘と過ごす時間をとっておくことができたので、最短の時間で最もたくさんお金を稼げる方法だったんです。チップだけでも、一晩で、私の娘の1カ月分の学費を賄うのに十分なお金を得ることができました。最終的には、私は8週間目で、1年間分(の学費)を払うことができたのです。すべてを自力でやることは、とてもやりがいのありました。たとえ、私たちがふたりっきりでも、何とかなると思えましたし、娘に一生懸命働くことと自立することの大切さを伝えることができました。

今や、娘が生まれて25年が経ちました。人は生きていくために必要なことなら何でも出来るし、実現できないとしても、「何でも出来るのだ」と思うことは、とてもすばらしいことです。10代のシングル・マザーとして、何とか生きていこうとして、そうするより他になかったのです。娘が大人になった今、ようやく私は一息ついて、これまで自分がやってきたことに驚いています。

若くして赤ちゃんの母になることは、容易なことではありませんでしたが、私たちが、お互いに学び成長していったことは、本当にやりがいのあることでした。一文なしで、ふたりっきりだった当初は理想的ではなかったけれど、だからこそ娘は、勤勉で、自立した、謙虚な女性になったのです。それはまさに、私が(娘が)子供に望んできたことで、彼女を育てるために、私自身がそうならなければいけない人間像でした。

なぜなら......

私が一文なしの、シングル・マザーだったから、娘はそうなりませんでした。

私が一文なしの、シングル・マザーだったから、娘は無条件の愛を知っています。

私が一文なしの、シングル・マザーだったから、私の家族の中で、大学を卒業し、終わりの見えない貧困と苦難の連鎖から抜け出した最初の人間になりました。

こういう結果になるとわかっていたら、私もう一度、同じことをするでしょう。

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このブログはハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。