赤ちゃんの「日常化」がこの社会にもたらすものとは

赤ちゃんの「非日常化」は、社会そのものの寛容さを失わせる結果にもなりかねない。

先日「ベイビーハラスメント」という言葉がネット上で話題となった。

きっかけはおそらく下記のブログだ。

このブログの筆者は、親が炎天下で首も座らない小さな子を連れ回していることに対して、

「そんな幼い赤ちゃんを連れてくる意味ってありますか?」

と疑問符を投じている。

正直、この気持ちは理解できなくもない。そんなに赤ちゃんに大変な思いをさせてまで、親は出かける目的を果たす理由があるのかという思いから発せられたものだと思う。

しかし、実はこれには正解はない。ケースによって異なるし、それを一緒くたにして総論として「赤ちゃんを外に連れていくな」と論じることの意味はあまりないのではないかと思っている。

ただ、こうした問題が出てきてしまう背景には、赤ちゃんの「日常化」ができていないことも原因ではないかと考える。少子化になり、赤ちゃんに出会う機会が減り、次第に赤ちゃんがいないことを前提とした社会に突き進んでしまうことには強い危機感を覚える。

社会が利己的な傾向に傾いている中で、赤ちゃんのいる世界をさらに遠ざけようとしている感覚はないだろうか。赤ちゃんの「非日常化」は、社会そのものの寛容さを失わせる結果にもなりかねない。例えば、保育園建設反対運動もそういう傾向にあることが多い。

赤ちゃんは本当に辛いのか

赤ちゃんは小さければ小さいほど、自分の意思を語ったり、表現したりすることが難しい。だから、赤ちゃんが連れ回されることに対して、それが嫌なのかどうかを正確に把握することはできない。

ただ、赤ちゃんは生後から1ヵ月間は外に連れ出してはいけないと言われるものの、基本的には刺激があるからこそ成長していく生き物のはずだ。寝返りができないような赤ちゃんにとっても、ずっと同じ景色ばかりを見続けながら一日中過ごすのは、ストレスになるに違いない。

それを回避するために、親は赤ちゃんが泣いてでも連れ出すということは許容されるべきものではないかと考える。日中にある程度の刺激がなければ、エネルギーを持て余すことにもなり、夜になっても寝ない状態にも陥りかねない。

今回のブログの執筆者は、落語の寄席での事例も取り上げているが、笑い声はあっても基本的には静かに聴いているのが筋の場所で、始終泣き声がしたら、他の観客がストレスを溜めこんでしまうのもわからなくはない。

それでまったく話が聴こえずに、内容が理解できなかったら、何のために寄席まで足を運んだかもわからなくなってしまう。最悪の場合、お金を返してというクレームがあってもおかしくはない。

始終泣き続けていたら、一時的に外に出るなどの親側の配慮も必要になるだろうが、だからと言ってまったくそのような場所に行ってはならないというのは少々不寛容すぎるのではないか。

最近、映画館では、子連れのために話しても歌ってもOKの上映スタイルを提供していることもあるが、子どもが騒ぐことを前提にしたスタイルが増えていくことも、今回のような「ベイビーハラスメント」と言われる指摘に対して、解決の糸口を導き出すことにもなる。

落語を観に行く若者も増えてきたという話も聞かれるようになった。これは寄席の主催側が考えることだが、ニーズ次第で子連れOKの寄席をもっと企画していくことも検討の余地があると思う。

実はかなり遠慮している親側

親は本当に遠慮をしていないから、赤ちゃんを連れてずかずかと出かけていくのだろうか。

実は、親の大部分はかなり遠慮しているのではないかと思う。開き直っている人のほうが少ないのではないか。遠慮しつつも、けどやっぱり出かけたいという気持ちのほうが強いはず。筆者も子どもが小さいときは、電車への子連れ乗車を躊躇することが多く、埼玉から都心に行くのであっても電車で行かずに車で出かけることもあった。

赤ちゃんが気候や季節に順応していくためには、一日中エアコンの効いた部屋にいるよりも、多少暑くても、少しの時間であれば外に出たりすることも必要なことではないかと思う。

それは親のエゴかもしれないが、例えば、遠慮しすぎて部屋に閉じこもってしまうようなことは何としても避けたいものだ。特に母子の場合は、そのような状態に陥り、密室状態に置かれ、ストレスから虐待に至るケースも多々ある。

外に出かけられない親のストレスだけではなく、一日中同じ場所で寝かせられる赤ちゃんにとってもストレスとなる。出かけないことについての過度の遠慮は有害にさえなり得るのだ。

ただ、当然のことながら、赤ちゃんの首が座っていない状態であれば、赤ちゃんの体調に応じて適宜休憩を取ったりするなどして、最善の安全確保策を講じるのは親の務めであろう。

埼玉県では、「赤ちゃんの駅」を様々な行政機関やその他の施設に設けて、下記のようなステッカーを貼ってもらい、積極的に出かけられる環境の整備に努めている。埼玉県では至るところにこのステッカーが貼られていて、赤ちゃんを連れ出してはいけないという遠慮のハードルを下げることにも貢献している。おそらく、同様の施策を講じている都道府県や市町村も多いはずだ。

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埼玉県「赤ちゃんの駅」のステッカー(登録数5,981か所・平成29年7月末現在)

埼玉県「赤ちゃんの駅」のステッカー(登録数5,981か所・平成29年7月末現在)

落語のケースに話を戻すと、たまたま落語のチケットが手に入って、さすがに赤ちゃんがいるから諦めようと思ったけど、この機会を逃したら、当分の間、鑑賞することはできないと思って、ほかの観客には申し訳ないと思いながらも来場したかもしれない。

直接その親に真相を聞くのは難しい。その泣き声を耳にしながら、我々は想像することしかできない。

そう、想像してほしいのだ・・・

いまは中2の長男が2歳くらいのときに、バスに乗る機会があった。普段はバスに乗ることはなかったので、当然長男も初めてに近いことだったかと思う。ただ、乗る直前にイヤイヤスイッチが入ってしまった。このバスを逃すとしばらくバスは来ない。

さて、親としてはどう判断するか。迷惑になると思いつつも、仕方がなくバスに乗った。乗るときもイヤイヤは収まらず、半ば発狂するかのような勢い。

長男はかなりわんぱくなほうだったので、我が家にとってその光景自体はさほど珍しくはなかったが、さすがにバスの中では周囲の注目を浴びることになる。バスの車内もある程度混んでいて、座ることもできない状況。心が折れてバスを途中で降りることも考えた。

しかし、バスを降りても、しばらく来ないバスを待ち続けるのは辛い。すでに日が落ちていたので、半ば路頭に迷うことになってしまう。それを考えるとどうしてもバスを降りることができず、しばらくその状態で乗り続けざるを得なかった。

幸いにして、徐々に乗客数も減り、息子のイヤイヤも低減してきたので、誰からもクレームを言われることなく、事なきを得た。けれど、そのときの乗客はたぶん「想像」してくれたんだと思う。ここでこの親子が降りたらかわいそうと。

炎天下だから赤ちゃんを連れ出すのは「ダメだ」「かわいそう」というレッテルを貼るのではなく、「どうしてここに赤ちゃんを連れた親がいるのか」をちょっとでもいいから想像してもらえるような社会になれば、社会はもっと寛容の雰囲気の中に包まれていくのだと思う。

赤ちゃんじゃなくても、泣いている子どもを見かけたら、そっと微笑んで見守ってあげられるような社会になってほしいものだ。

その寛容さを大人側が獲得していくためには、赤ちゃんをもっと外に連れ出すことだと思う。ある意味、堂々と(もちろん安全は確保した上で)。赤ちゃんの「非日常化」から「日常化」に移行していく中で、自然と寛容な社会への雰囲気が醸成されていくはずだ。

一方で、このブログの筆者に対して「子どもを産んでから意見を言え」という残念な意見も見受けられた。子どもの有無だけをもって、この寛容さは醸成されるものではない。産む・産まないという個人の選択を尊重しながら、次世代を育てるのはいまこの社会に生きるすべての大人の責務という各々の自覚によって醸成されるものではないかと、今回ベイビーハラスメントという言葉を通して思い浮かぶに至った。