アイルトン・セナは、モータースポーツの歴史において最高のF1ドライバーに数えられている。その彼は、20年前の5月1日、サンマリノ・グランプリにおいて34歳の若さで亡くなった。
最も傑出しスリリングなドライバーの一人であるセナは、1988年・1990年・1991年のワールドチャンピオンを獲得している。アラン・プロストとともにマクラーレンに所属し頂点を争っていた時期、二人はF1史上でも非常に長いライバル関係にあった。
セナの遺産は、彼の甥であるブルーノに引き継がれている。ブルーノはFIA世界耐久選手権においてアストンマーチンのレーシングドライバーである。2011年、セナの生誕50周年には、アシフ・カパディア監督によってドキュメンタリー「アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ」が製作された。このドキュメンタリーは称賛されたが、批判も受けた。
Senna prepares ahead of the 1994 San Marino Grand Prix in Imola
セナの死の前日、オーストリアのローランド・ラッツェンバーガーがイモラ・サーキットの予選で亡くなっている。この沈痛な週末以来、F1ドライバーの死者は出ていない。しかし、この二人の死、特にセナの死に向き合い現在も生きている人間にとっては、依然、二人の死が脳裏から離れない。
グランプリの2日前、セナと親密な間柄であったブラジル出身のルーベンス・バリチェロが縁石を使って道路をカットし、ヴァリアンテ・ヴァッサ・シケインのところで時速225キロでクラッシュした。セナはバリチェロを医療センターで見舞ったが、このブラジル人のルーキーはその場所で意識を回復した。
セナは、1994年シーズンにマクラーレンからウィリアムズに加入したが、その車には深く失望していた。彼は、車が改良されたことを認めてはいたが、バリチェロの事故やラッツェンバーガーの死により非常に不安定になっていた。
イギリス人の神経外科医シド・ワトキンスの仕事は、20年に渡りF1において死者をゼロにすることに責任を負うことであった。ワトキンスはその時、セナに対しレースを続行しないで、中止することを必死に懇願した。しかし、セナは「中止することはできない」と言った。セナは、ラッツェンバーガーの死により精神的に非常にもろくなり、自分のモーターホームで倒れてすすり泣いていたと言われている。
レース当日の朝、セナは、以前のライバルであるアラン・プロストやニキ・ラウダとF1ドライバーの安全性の改善について話している。セナは、ウォームアップの周回では最速ラップを出した。しかし7周目で、セナの乗るウィリアムズの車はタンブレロ・カーブのところでコースアウトし、時速305キロでコンクリート壁に激突した。上空からの映像では、セナの頭がかすかに左に動いたことが確認できるが、そこから右に戻ると二度と動かなかった。
「彼の様子はおだやかだった」とワトキンスはドキュメンタリー「アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ」のなかで回想している。彼は、セナに現場で気管切開を施した。「彼のまぶたを持ち上げたが、瞳孔を見ると大きな脳損傷を負っていることが明らかだった。コックピットから持ち上げて、地面に横たえた。そうしたとき、彼はため息をついた。私は宗教的な人間ではないが、その時、彼の魂が離れていったような気がした」
写真家で、セナの友人であるアンジェロ・オルシは、担当者が周囲を囲むまえに、セナのヘルメットがはずされ動かなくなっているところを写真に捉えた。オルシとセナの家族だけがこの写真を見ている。
セナはマジョーレ病院にヘリコプターで運ばれ、午後3時10分に一旦心臓の鼓動が止まった。医師はセナを生命維持装置につなぎ、蘇生した。セナの心臓は午後6時37分に再び停止した。その後は蘇生しないことが決定され、セナは死を宣告された。
BBCのスポーツ解説者であるマレイ・ウォーカーは、セナの死について「記憶する限りグランプリ・レースで最も暗澹たる日」と形容している。車の残骸の中からオーストリア国旗が見つかったが、これはセナがラッツェンバーガーへのたむけにフィニッシュ・ラインで振るつもりであったものだった。
セナの死は、ブラジルでは国全体の悲劇であり、政府は3日間喪に服することを発表した。彼の故郷であるサンパウロでの葬儀では、数百万の人々が街路にあふれた。
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