先週の土曜日、つまり原爆の日に放映されたNHKスペシャル「決断なき原爆投下 ~米大統領 71年目の真実~」はなかなか見応えがあった。簡単にいえば、これまで考えられてきたのとはちがい、「原爆投下を巡る決断は、終始、軍の主導で進められ、トルーマン大統領は、それに追随していく他な」く、広島・長崎が「市街地」であることに気付いていなかっただけでなく、投下の指示自体明確には行われなかった、という内容だったと思う。
毎年、夏になると「原爆投下は必要だったか」は話題になる。何か新しい発見に基づくものもあれば(上記のNHKスペシャルはそれだ)、これまでの論点を整理したり同じ主張を繰り返したりするものもある。
原爆の被害の大きさ、悲惨さに注目する人々が「必要ではなかったのではないか」という主張をさまざまな論点や検証をもとに論じるのに対し、アメリカを初めとするかつての戦勝国の人々を中心に「戦争を終わらせるために原爆投下は必要だった」という意見が出され、対立したまま終わる。そしてまた翌年繰り返される。そういった流れだろうか。
今年は特に、米オバマ大統領が広島を訪問したことで、この話題はふだんよりさらに関心が集まったように思う。
もとよりこの領域は専門外なので素人考えにすぎないが、毎年形を変えつつも繰り返される議論で、どうも気に入らない点がある。上記のどちらの立場も、「原爆投下が必要だったのか」という問いを、それ自体ではなく、「米国に謝罪させたい」「米国は謝罪すべきではない」といった別の目的で取り上げているようにみえてしまうことだ。
あるいは過去でなく、「核廃絶を進めたい」「核武装は安全保障上維持すべきだ」といった、将来に向けた意図を込めているものもあるかもしれない。いずれにせよ、いわゆる「ためにする議論」のようにみえる。
この問題を考えるなら、米国側だけを対象とするのは不適切だろう。日本側は、2発の原爆投下がなくても、終戦に踏み切れただろうか。これまで知られているところからすると、それはどうも疑わしく思われる。
もちろん当時の戦況はどうしようももないところまで追いつめられていたから、そう長く戦争を継続することはできなかっただろうが、それでももうしばらくは抵抗を続けることはできただろう。特攻の生みの親でもある大西瀧治郎が、本土決戦で2000万人が死ねば敵にも相当の死傷者が出るだろうから降伏は避けられると主張していたのは有名な話だ。
そうした意見が当時の指導者層に対してどの程度の説得力を持っていたかはわからないが、いわゆる玉音放送を阻止しようと反乱を起こした軍人が少なからずいたことを考えれば、少なくとも降伏に対して根強い抵抗があったことは否定できまい。もし2発の原爆がなかったら無条件降伏が相当期間遅くなっていたかもしれないと考えることにはそれなりの根拠があるといえるのではないか。
そしてその影響は相当大きかったであろう可能性がある。その間に第3の原爆投下があったかもしれないし、ソ連侵攻によって日本が分割されていたかもしれない。
想像は尽きないが、そもそも、こうした議論にあまり意味はない。原爆投下は実験だったとか原爆よりソ連参戦の方が決定的だったという主張もあるが、いってみればそれも後知恵だ。実際には8月上旬の数日間に原爆が2つ落とされ、ソ連が参戦した。
そうした状況下で無条件降伏が決定された。これが事実だ。よく「歴史にifはない」という。このことばの言い出しっぺはE.H. Carrであるらしい。歴史上のさまざまな「if」をあれこれいうことは楽しいが、学問としてそういうことをする人たちは「未練学派」と呼ばれ批判される。
原爆投下は必要だったかを論じることが「if」を論じることに直結しているとは限らないが、どうも「必要でなかった」と主張する人たちは「投下しなくても早晩戦争は終結した」と考えている場合が多そうで、もしそうなら事実上「if」を論じているのとそう変わらない。もちろん、逆方向の「原爆投下がなければ相当期間戦争が継続した」も「if」の一種だ。
歴史はさまざまな要因が複雑にからみあって進行する。不可避の流れもあれば、偶然が大きな変化をもたらすこともある。「If」のシナリオは考える人の数だけありうるだろう。
そして何より、「if」を考える人はたいてい、そこに何らかの「願望」を込めている。そうした願望は未来を動かす原動力にもなるが、同時に人々の目を曇らせ、判断を誤らせるもとにもなる。
インディ・ジョーンズのセリフに「Archaeology is the search for fact... not truth.」というのがあったのを思い出す。もちろん、原爆投下がどのような情報に基づきどのようなプロセスでなされたかといった事実に基づく検証を行うことは大事だ。だがそれを、現代に生きる私たちの願望や価値判断に直結させるべきではない。
仮に「原爆投下が戦争終結を早め、日米双方の多くの人命を救った」としても、それは原爆によって命を落とした人たちに対して「しかたなかったんだあきらめろ」と言い放つことではないし、今後核武装を維持していくことを正当化するものでもない。
逆に、「原爆投下が戦争終結を早める効果、人命を救う効果はなかった」としても、米国軍人全般の名誉を傷つけることにはならないし、すぐに核兵器を全廃すべきという結論にもならない。その点をごっちゃにするから話がおかしくなるのだ。
では、件のNHKスペシャルを含む、歴史の検証から私たちは何を学ぶべきなのか。いくつもあるだろうが、3つだけ挙げる。
(1)実際の局面では明確な根拠なしに重大な意思決定が行われることがありうる
原爆投下は、十分な根拠にもとづく明確な指示なしに行われた、というのが番組の主張だった。大量破壊兵器があるとしてイラクに攻め込んだ米国の意思決定も、十分な根拠があったとはいえないだろう。日本政府も戦前には、情勢を把握していなかったために失敗を繰り返し、国を滅亡寸前まで追いやった。
もちろん改善の余地はあったろうし改善をはかるべきではあるが、特に戦争のような、リアルタイムで重要な決定を矢継ぎ早に行わなければならないような場合、不十分な情報に基づいて判断を行うのはむしろ自然なことだ。これはどの国でも組織でも起きることだし実際起きてきた。「完璧」を期すること自体、無理があると知るべきだろう。
(2)対外的、表面的な説明はその裏にある都合の悪いことを隠すために行われることがある
軍にとって原爆投下は、それまでにかけた膨大な開発コストを正当化するためにぜひとも必要なことであり、そのために情報を操作した、と番組では説明していた。しかしそうした事実は当然明らかにされず、対外的にはトルーマン大統領が「原爆投下は必要だった」と説明し、それが今でも彼らの「常識」となっている。
組織は自己防衛のために積極的あるいは消極的な嘘をつくことがある。これも、どの国や組織でも起こりうるし実際起きてきたことだ。重要な点は、こうした自己防衛が過大な期待や過剰な責任追及への対応として起きる、ということだ。
つまり、これは指導者など一部の人々だけの問題ではなく、私たち1人1人の問題でもある。これを知っておくことは、今後私たちが経験するであろうさまざまな重大な局面において、有益な知恵となるだろう。
(3)記録を残し検証していくことは重要
今回の番組は、アメリカが残していたさまざまな資料によって裏付けられていた。いうまでもないが、記録を残し、それを保存し続けるにはそれなりの意志とコストが必要だ。しかもこれらは、必ずしもアメリカにとって有利とはいいにくい内容だ。
上記のように、明確な根拠なしに重要な意思決定が行われ、しかもそれが隠蔽・歪曲されたりする状況があるとき、この点がいかに重要であるかは言を俟たないだろう。もちろんこれも、国や組織を問わずいえることだ。
事実と価値判断を切り離すことがなかなかできないのは、関係者がまだ生きているせいかもしれない。たとえば数百年前のできごとであれば、もう少し冷静にみることができるのではないか(例外はあるが)。その意味でも、記録を残すことは重要だろう。
なんだかんだで毎年この時期に戦争と平和について考えたりすることになるわけだが、これも悪くない。過去を変えることはできないが、過去に学ぶことで、未来をよりよくできるかもしれないからだ。
考える内容は人によってちがうだろうが、むしろ違いがあることこそ、私たちの社会がまだそこそこ健全である証だろう。日本だけでも300万人、世界全体では8000万人だかが死んだという事実は、70年で色あせてしまうものでもなかろう。お盆の季節でもあるわけで、亡くなった方々に思いをはせつつ、ゆるゆるとでも考え続けたい。
(2016年8月10日「H-Yamaguchi.net」より転載)