子供に見せたくない番組――昭和と平成の時代から

施設職員が必ずしも良い人ばかりとは限らないのも現実である。養父や後妻の暴力や苛めのサスペンス作品も多くある。しかし、どうしても「明日ママ」を肯定的に見られないのは、野島作品がサイコパス的なだけでなく、子供同士が変なあだ名で呼び合っている場面が見ていられない。
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昨年末から毎週水曜日夜8時からテレビ埼玉で再放送されている、「傷だらけの天使」(1974年放送)を見ていた。リアルタイムで小学生から見ていた自分が、50代になった今これを見たら何を思うかなぁ、と思ってからだった。

中卒の若者が2人、怪しい探偵事務所に雇われ翻弄する物語で、経済安定成長期に一世風靡した番組だった。「子供に見せられない」とPTAから苦情が来るのは、乱闘や卑猥な場面が過激だという理由だった。

顛末が残酷なのにストーリーの中は何処か暖かい。全26回のうち、「親のない子」の物語が数回出てくる。貧しさの中の懸命さや優しさや正義が共感出来て、何回見ても面白い。

一方、「明日、ママがいない」(毎週水曜日10時~日本テレビ)はどうか。「子供に見せたくない」の質が、「傷天」とは違っている。親のない子に対する差別や偏見を助長するとかPTSDが問題視されているのだ。

モデルとされた慈恵病院からの抗議もある。私は思う。そもそも、「こうのとりのゆりかご」という実話に基づいた番組が作られ放送された事がどうだったのか。赤ちゃんポストは、守秘義務厳守、匿名性を尊重するという前提で開始された最後の砦である。赤子を連れてここを訪れる人達は千差万別の複雑な事情を抱えて来る。或いは心ある人達ばかりが利用しているかどうかも把握できかねる場所である。

たとえドラマの対象者の了承の上であったとしても、そういったことが、慣習とされるべきではない。赤ちゃんポストは常に安心して利用できる場所でなければならない。結果として商業目的となったり、養子縁組は人身売買と化してしまうなどの危険性は回避するべきである。

テレビドラマ化などの、善管注意義務喪失(注)や、守秘義務の軽薄さは人格権や人権の問題として考えさせられる。誰のための仕組みなのかわかっていない援助する側の傲慢さや自己満足は、常に対象者を傷つけるものである。

「こうのとりのゆりかご」について、私はこの違和感が不快感として残っている。その点では、野島伸司氏の「明日ママ」は、俳優の演技力に注目されがちなこの種の「美しい番組」への警告として有効なのかもしれない。

施設職員が必ずしも良い人ばかりとは限らないのも現実である。養父や後妻の暴力や苛めのサスペンス作品も多くある。しかし、どうしても「明日ママ」を肯定的に見られないのは、野島作品がサイコパス的なだけでなく、子供同士が変なあだ名で呼び合っている場面が見ていられない。テレビを見ている子供は学校などで敏感に真似をする。

私が最も問題に思うのは、不特定多数の子供同士のいじめを確実に助長していると見える事だった。そして、当事者の人達がこんな番組を見て体調を崩したりしないよう願いたいと思っている。テレビ番組制作は、その影響力を真摯に扱って人間の人権や人格権に及ぶ不法行為的な内容にならないようモラルを守るべきである。