彼ひとりの夜にとっての浅田真央

ファンのために、支えてくれた人々への恩返しとして、そして自分自身のために滑り、成し遂げられたことがうれしいといったことを、彼女は演技後や翌日のテレビで語っていた。スポーツにおけるドラマとはほかの誰でもない、競技者自身だけがつくり出すものであるということを浅田選手は示してみせた。
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浅田真央選手が4回目か5回目のジャンプを成功させたあたりから、自分の目から涙があふれ始めたことに彼はびっくりした。

それほど強い思い入れがあって、彼は浅田選手の演技を観てきたわけではない。ソチ五輪が開幕して以来、連日の夜中の五輪観戦で寝不足になり、体の調子がよくなかったので、前日のショートプログラムはテレビでのライブ観戦をあきらめて早めに寝た。

フリーも録画でいいかなと思っていたが、ショートの結果を知って気が変わった。午前1時にめざまし時計をセットした。

どうして気が変わったのか、彼自身にもわからない。いま思えば、何かの巡り合わせを感じたのかもしれない。

彼にとって冬のオリンピックのいちばんの思い出は、8年前のトリノ五輪の女子フィギュアスケートだった。

フィギュアという競技に特別の思い入れがあるわけではない。たまたま彼の母親が大きな病と闘っている最中に行われた五輪で、日本がたった一枚のメダルを獲得したのが女子フィギュアだったのだ。

トリノ五輪の前年の秋、彼の母親は突然、病に倒れた。家族が現実として受け止めることもできないほどのスピードで病状は進行し、五輪が始まったころには先行きの希望もあまりもてないほどになっていた。

イタリアのトリノで行われたその五輪は、日程を重ねるごとに日本で応援している人々を重いムードが覆っていった。スピードスケートやスノーボードなどでメダルを期待された選手が次々と敗れ去った。

荒川静香選手がショート3位でフリーに挑んだのは、そんな空気の中で迎えた大会14日目だった。その時点で日本のメダル数がゼロであることは彼女には無関係だが、メディアは「絶望的な不振のなかでの最後の望み」と構図を記号化する。荒川選手が実際にプレッシャーを感じているかどうかはともかく、そうした演出がほどこされた状況で彼は女子フィギュアを観戦した。

あのときも、観ているうちに彼は泣けてきた。荒川選手が演技が終えたときには、心が震えるほど感動した。なんでだろう。フィギュアという競技については「ど」が1億個つくほどの素人だ。演技や技術の何がすごいのかはわからない。トゥーランドットの旋律にやられた面もあるだろう。

でも、要はおそらくこういうことだ。

打ちひしがれていた日本に荒川選手が最後の最後にメダルをもたらした。それも金色の。絶望のなかに差した一筋の希望の光。そこに彼は母親と自分を重ね合わせた。

母親はトリノ五輪の数カ月後に息を引き取ったが、冬のオリンピックが来るたびに、イナバウアーで語られるあの日の荒川選手の4分間の演技を観ていたときの心の震えが彼の内によみがえる。

今回のソチ五輪は、よりによって彼自身が大きな病気をわずらったばかりだった。仕事に少しずつ戻れるようにはなったが、たまに病院へ行って部分的な治療は細々と続けている。病気と冬の五輪。やれやれまたかよ、と彼は8年前を思い出してひとりで苦笑いした。

そのせいでドラマを予感した、なんてことはもちろんあり得ない。でも浅田選手のショートプログラムの点数と順位を知ったとき、彼は理由もなく、自分自身でもまったく説明できないままに、しかしほんとうに思ったのだ。この夜の彼女のフリーをライブでテレビ観戦しないときっと後悔すると。

■ そこで跳ぶものにしかドラマはつくれない

もうひとつ、浅田選手がこの五輪を一体どのようなかたちで終えることができるのか、強い興味がわいたということもある。

ショートの結果は、本人やファンやフィギュア界の人々にとって衝撃だっただけでなく、メディアのドラマツルギーが用意したどんなシナリオにとっても想定外のはずだった。

彼は、フィギュアスケートとはまったく種類の違う別のアマチュアスポーツの専門誌で、記者を6年間務めたことがある。大学や実業団や高校の選手やチームに密着し、国内外へ取材に出かけた。別な会社の週刊誌に移って20年近く編集部にいた間も、志願していろいろなスポーツの特集や取材をよく担当させてもらった。

彼からみると、日本の新聞(スポーツ紙と地方紙はとくに、全国紙もしばしば)とテレビは、試合と選手を物語で回収しようとしすぎる。苦しい環境で苦労してサポートした父と母、孫のオリンピック出場を楽しみにしながら亡くなったおじいちゃんやおばあちゃん、恩師やコーチとの葛藤、けがや病気で五輪のメダルやキャリアをあきらめかけた日々...。

競技者としての選手の個性にもスポットライトがまったく当てられないわけではないが、情報のパッケージとしては、選手は天才少年・少女でスタートする起承転結の型にはめられ、その時点での頂点である大会や試合で完結する感動のストーリーとして読者・視聴者に消費される。

日常的に話題になることが少なく、名前を聞いたことすらない選手にも短期間で読者・視聴者になじんでもらわなければならない五輪はとくにその傾向が強い。

ただ、そうしたメカニズムから超越したポジションにいるようにみえたのが、浅田真央という選手だった。

彼女のお母さんが亡くなったとき、フィギュアスケートのファンを中心とした人々がツイッターで、その死を「浅田選手が背負った悲劇」と安易でセンチメンタルに扱うことを猛烈に批判し反発していたのを、彼は印象深く記憶している。

実際、この4年間、いや8年間、金メダルに挑戦することが当たり前とされ続け、夏季五輪の種目と比べても格段にふだんからの注目度も露出も大きい女子フィギュアのトップスターである浅田選手に、今さら思い出アルバムや陳腐なプロットを用意しても仕方がない。説明されるのは、「金メダルで有終の美」という結末だけだ。

五輪前の報道では、トリプルアクセルへのこだわりや今シーズンの戦績と内容の振り返り、韓国のキム・ヨナ選手やロシアのユリア・リプニツカヤ選手との対決の見どころに触れる程度のものが多かった。マスコミもそうするしかないようにみえたし、それがこれらの年月のうちに醸成された浅田選手へのリスペクトであるようにも感じられた。

その浅田選手が、感動のドラマのエンディングというシナリオを破綻させる状況に置かれ、そのことによって逆に誰も予想しえない別なドラマの舞台が突然現れるという、なんともパラドキシカルで御し得ない場所に立たされた。

気持ちの整理など準備に費やせるのは24時間もない。どうするのだろうか――。それもあって、彼は迷いもせずにめざまし時計をかけた。

浅田選手がそこで見せてくれたのは、ありとあらゆる予定調和的なものを吹き消し去るようなクロージングだった。金メダル、銀メダル、銅メダルでは測って称えることのできないものもオリンピックでは実現されうることを、観ていた人々はあらためて知らされた。

ファンのために、支えてくれた人々への恩返しとして、そして自分自身のために滑り、成し遂げられたことがうれしいといったことを、彼女は演技後や翌日のテレビで語っていた。スポーツにおけるドラマとはほかの誰でもない、競技者自身だけがつくり出すものであるということを浅田選手は示してみせた。

母親のときと同じように、その夜の演技に彼は病気をわずらった彼自身を重ねて光を見ようとした。同時に、浅田真央という選手の偉大さを(今さらながら)理解できたような気がした。その二つが彼を涙させたのだろう。

彼は、つまり僕はいま、このオリンピアンを今まで以上に、心から尊敬している。

(2014年2月21日「竹田圭吾Blog.」より転載)