『地下鉄(メトロ)に乗って』や『鉄道員(ぽっぽや)』などの代表作や、『壬生義士伝』ほか様々な時代小説でも知られる作家・浅田次郎さん。しかし、彼がかつて自衛隊に所属していたということは、あまり広くは知られていない。
自衛隊所属時代の体験と戦争や軍隊にまつわる豊富な知識を活かし、『終わらざる夏』などの戦争小説を記してきた浅田さんは、この夏、戦争をテーマとした短編を集めた『帰郷』を出版した。
自衛官を経験した浅田さんだからこそ知る軍隊のトリビアや、戦争の知られざる6つの裏側を教えてもらった。
1. 郵便局員ではない?「赤紙」は誰がどう届けたか
戦争小説でたびたびテーマにあげられるのが、兵隊の召集令状、通称“赤紙”だ。赤紙はいったいどのようにして各家庭に届けられていたのだろうか?
赤紙は、召集される人の本籍地の市町村役場の「兵事係」つまり公務員によって届けられていた。ただし、役場では居住地を正確には把握していない場合もある。そのときに重要な役割を果たしたのが、国民を細かく管理できていた交番であると浅田さんは語る。
「お巡りさんは分担区域の個人情報を持っていたんだ。交番のルーツというのは江戸時代の番所で、それでも行き届かないエリアはヤクザの親分が十手や捕縄を持って管理をするっていう綿密な治安維持網があった。その証拠に江戸時代の地図を今の地図に重ねると、番所があった場所に、不思議なくらい今は交番があるんだよ」
本籍地の役場と軍を繋ぐのに、警察のネットワークが活用されたというわけだ。しかし、必ずしも召集される人が本籍地に住んでいるわけではない。その場合、実家にいる家族が、本人に知らせる必要がある。
当時のハガキは一銭五厘。郷里からのハガキで召集を知らされることも多く「一銭五厘の命」とも言われていた。そのほか、電報や電話で伝えられることもあった。会社員の場合、本籍地にいる家族から、会社に電話や電報が届くケースも。会社員の場合、召集令状が届くと、すぐに給与が停止され、有無を言わさず1週間以内に本籍地まで出向いて入営することになった。これが赤紙による召集のしくみだ。
2. 自衛隊専門の消費者金融があった!?
戦後のインフレ時代、質屋が貸金業の代わりを担っていた。現在のように簡単にお金が借りられる時代ではなかった当時の日本。庶民は質屋に貴金属や着物を担保として預け、お金を借りるしかなかったという。
浅田さんの作品『歩兵の本領』には、自衛隊員向けの消費者金融が登場する。これは実在していたのだろうか?
「これがね、本当にあったんだよ。全国の駐屯地のそばにも、同じような業者が支店を出していてね。じゃあなんで自衛隊向けには消費者金融があったかと言ったら、そりゃあとりっぱぐれないからだよね。だって、借りた人間がずっとそこにいるわけだから(笑)。入隊時にチェックしていれば、1任期2年間は動かないから管理しやすいでしょ。そろそろ任期満了かというところで、ガッと追い込みがかかる。僕は中隊の事務室で文書係をやっていたことがあるんだけど、督促状がたくさん届くわけ。会社名が書いてあるからバレバレなんだけど、仲のいい上官や同じ班のやつには受領記録を残さずにこっそり持って行ってあげたもんだよ。案外マジメで堅そうな人が滞納してたりして。あれは笑っちゃったよ」
3. 後楽園ゆうえんちは、その昔兵器工場だった
家族連れやカップルでにぎわう後楽園ゆうえんち(現在の東京ドームシティアトラクションズ)。この場所が、かつて兵器工場だったというのをご存じだろうか? 1872年(明治4年)から陸軍が管轄する東京砲兵工廠だったこの地では、大砲や小銃などの兵器を製造していた。しかし、東京砲兵工廠は1923年、関東大震災の被害をうけて閉業。その後、福岡県の小倉兵器製造所に集約移転された。
1936年(昭和11年)に職業野球専用の球場をつくることを目的とした株式会社後楽園スタヂアムを設立。東京砲兵工廠は、大蔵省から用地の払い下げを受け、翌年1937年(昭和12年)に後楽園球場が開場。その後、1955年(昭和30年)7月9日、後楽園ゆうえんちが開園した。
「おふくろと一緒にジェットコースターに乗って、両手放しで乗って怒られたのを思い出すね(笑)」と浅田さん。
浅田さんの短編小説『夜の遊園地」(『帰郷』所収)では、終戦後すぐ東京にできた遊園地が舞台となっている。平和なイメージをもつ娯楽施設でも、かつて軍事国家であった日本の知られざる歴史が潜んでいる。
4. 戦後の軍人が就くセカンドキャリアとは?
戦争を終えて帰還した軍人たちは、その後どのような仕事に就くのだろう? 軍隊の幹部将校候補を養成するために設けられた全寮制の陸軍幼年学校を出て入営した軍人にとっては、つぶしのきかない仕事とも言える。その後のキャリアが気になるところだ。浅田さんは「本当に色々な人生があったはず」と当時を語る。
「僕の生家の隣が乾物や食料品を売る店だったんだけど、ご主人が士官学校出身で陸軍少尉だった。自衛隊時代に僕がお仕えした連隊長は、士官学校最後の60期生で、ポツダム少尉と呼ばれていた。生粋の将校は陸軍幼年学校から士官学校で、つまり13歳から20歳までずっと軍人教育を受けてきたわけ。戦争に負けたからって他の仕事ができないから、自衛隊に入隊した人も多かった」
自衛隊に入隊した人のほかに、まったく異なる人生を送った人も。
「おもしろいのは、陸軍幼年学校出身で中高生の年齢で終戦になった人には、なぜか小説家が多いこと。西村京太郎さん、三好徹さん、加賀乙彦さん。十代で志した道が時代の流れで閉ざされた時、その後小説の道を目指すというのはなんだか不思議な気もするけど、そもそもエリート中のエリートですからね」
5. 軍隊も一般企業も、基本構造は同じ
軍隊が戦闘能力を発揮させるための基本構造は、古くは18世紀にさかのぼる。そのルーツはナポレオン率いるフランス軍だ。戦闘行動の際に1人の上官が指揮できる範囲は5名まで。これは砲戦の最中でもなんとか声が届く範囲を想定している。一個方面軍の下に、5個以内の軍、一個軍の下に同数の師団が組まれる。その下に連隊が組まれ、以下大隊、中隊、小隊、分隊……と続く。このピラミッド型の構造が軍隊の基本となった。
1971年(昭和46年)、19歳で自衛隊に入隊した浅田さんは、当時を振り返る。「まだ戦争が終わって25年しか経っていなくて、古参の隊員の中には戦争体験のある人もいた時期。だから、習慣やものの呼び名に帝国陸軍の名残があったよ」
古くから、シリアスな議論を経て生まれたピラミッド構造。フランス軍制ならナポレオン、ドイツ軍制ならクラウゼヴィッツの時期にはすでに確立していたと言われている。
「国家存亡の危機を賭けて改良を重ねていった組織は他には存在しない。そして、この組織構造は、今の企業社会にも援用されているんだよね」
6. 戦死の知らせは正確ではなかった
戦時中に兵隊が戦死すると、遺族のもとに戦死公報が配達される。しかし、太平洋戦争では、戦死公報がきたにもかかわらず、終戦後、生きて帰ってきた兵隊が大勢いたと言われている。
「太平洋戦争も末期になると、情報はどんどん曖昧になってくる。そもそも帝国陸軍には終戦時点で500万人の兵がいたと言われているから、コンピューターもない時代に、誰がどこで何をしているかなんて、正確にわかるわけはないんです」
戦下で戦う兵士ひとりひとりには、戦局もわからないという。自衛隊での演習体験をもとに浅田さんはこう語る。
「自衛隊時代に、富士の演習場で1万人対1万人規模の軍事演習をするんだけど、やってることと言えば何日も飯も食わずに歩いて、時々空砲射撃をするくらい。今が何月何日で何のための作戦行動で、敵がどこにいて、戦局がどうなっているかもわからない。戦争のダイナミズムってそういうもの」
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戦争を、今描くということ
——戦争にまつわる様々な疑問にお答えいただいたわけですが、小説の中に“戦争”というテーマを持ち込むことで、なにを描きたいと思っているのでしょうか?
何を描く、というより使命感がありますね。戦争小説を書くのがおもしろいかといえば、これはしんどい仕事。ただ小説という形で誰かが記していくべきだと思う時、特に僕の場合は世代的にも経験的にも書かなくてはならないと思っている。
昭和26年、つまり終戦直後に生まれた僕の世代は、父親がほとんど兵隊として戦争に行っていて、かつ戦死せず帰ってきてから家族を作った世代です。うちは父親が昭和19年の召集で、母親は女学校ごと軍事工場に働きに出ていた。親からたくさん戦争の話を聞いて育っていて、だからこそ戦争を描くべき使命感がある。もちろん戦争体験者が僕の小説を読んだら、おかしいと思うことはあるかもしれないけれどね。
戦争というのは「苦悩」の塊。あまりいい話じゃないけど、物語の宝庫で、皮肉にも文学の根源を見出すことができる。個人に収斂する苦悩でなく、社会全体が帯びてしまった苦悩というのは、文学が描くべき題材なんだ。
——戦地の軍人だけでなく、国に残された家族や、その時代の人々全体に振りかかる苦悩が、それぞれのドラマを生む……。
ちょっと日本の近代文学に寄せていうと、そのルーツはイギリス由来の自然主義で、そこから様々な手法やジャンル的な発展を遂げ、今日の純文学にまで繋がっているというのが一般的な解釈です。欧米発祥の自然主義というのはありのままの人間を描く文学形態だと思われているけど、僕はキリスト教の宗教的呪縛から放たれた自由を描こうとしたものだと思っている。けれど、それが輸入された明治期の日本社会には、そもそも個人を強烈に束縛する宗教がなかったわけだ。
あったとしたらせいぜい儒教的なモラルや、形骸化した封建的家族制度くらいで、それが宗教的呪縛に代替されたことで、本質的なものから逸れてしまい手法として行き詰まっていく。だからこそ、以降の文学は個人の苦悩を描くわけだが、それは社会性を帯びえない。
田山花袋だって、志賀直哉だってそうでしょう。突如西洋化した社会の中で、庶民はまず、どう生活設計をしていくかが課題になるから、彼らのように苦悩することすらできない。そんな風に手法が逃げ場を失った先で、戦争が起きた。これは社会全体の普遍的苦悩で、だからこそ戦争文学がジャンルとして成立したんだ。
——その時代の全員が共有する、大きな苦悩の物語だったからこそ、必然的に受け入れられたと。
戦争は、その時代を生きたあらゆる立場の人に影響を与えるもの。戦争体験はあくまで個々人のものだけど、それぞれの体験はすべて同じ戦争の中にあって、必然的に社会性や全体性を帯びるモチーフになるんです。
そこにいる人全体に等しく苦悩を与えるという意味では、実は軍隊や自衛隊も近いものだと思うんだ。自衛隊にいた頃に唯一「いいところだな」と思ったのは、出来が良かろうが悪かろうが、出自も関係なく片っ端から全員ぶん殴ってくれるところ。そうすると自尊心がまず崩壊する。本をたくさん読んでるなんてなんの役にも立たなくて、その代わり頑張って体を鍛えれば出世できる。みんな同じ環境だから、戦友という独特な関係性が生まれる。
こんな公平な世界が他にあるだろうかって、素朴なありがたみを感じたんだ。戦争をテーマにこの感覚を描いている作品も少なくない。ぼくは自衛隊という環境に身を置いたおかげで、そんな戦争文学が自分なりに理解できるようになったわけで、貴重な経験をしたと思ってるよ。だからこそ、戦争を通して物語を描いていきたい。
——そんなお気持ちで記された今回の『帰郷』ですが、どういう人達に読んでもらいたいですか?
それはやっぱり、若い人たちに読んでもらいたいね。この短編集には、同じく若い年代の登場人物がたくさんでてくる。同じ若者が、“集団ヒステリー”とも言われた戦争の時代にどう生きたかを読んでほしいんだ。
戦争の時代は“人間50年”と言われていて、毎日が命がけだから、年齢以上にみんな老けていた。いや、老成するしかなかったんだろう。そこには悲哀と緊張感がある。そんな「老いた」青年たちの姿を、ぜひ現代の若者に知ってもらいたいね。
(執筆:武田俊/撮影:西田香織)