美術における「女性像」と「理想像」

理想像は悪ではありません。理想とは、個人が最も望ましいと感じられるものです。
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先日、ロサンゼルス郊外に位置するとある美術大学であった話です。

アメリカの美術高等教育では、各クラスでプロジェクトの終了後に"クリティーク"と呼ばれる生徒の作品を評論し合う時間を設けます。プロジェクトの内容はそれぞれですが、評論内容は主にテクニックやコンセプトについてです。一人の男性生徒が男性と女性の体を描いた作品を提示しました。すると、女性生徒がこう言いました。

「女性を侮辱する作品だ。」

男性生徒の作品にある男女の絵は、シルエット効果を利用した写実的な作品で、全体的に薄暗く、個人が把握できない描き方です。男性の動作は女性に比べ少し活動的であり、体は触れるどころか完全に分かれた2枚の絵でした。

なぜ、男性生徒は他の女性生徒から批判を受けてしまったのでしょうか。

クリティークを続けていくと、批判対象となった一つの共通点が見えてきました。それは、女性のシルエットが、男性にとって「理想的」と言われている形だったからです。

ここで言う「理想的」とは、従来魅力的とされていた女性の細く小さな体、そして胸とヒップが張り出ていると言う箇所に注目したものです。この女性生徒は、偏見的に描かれた女性像が不快であると感じました。

今日のアメリカでは、"Me Too"ムーブメント(「私も」と言う意味のハッシュタグをつけセクシュアルハラスメントの被害にあった女性達がSNS上で主張・同感し合う動き)など、女性の存在や権利を主張する運動が強まっており、男性が女性の性的な部分について安易に発言しづらい状況にあります。

性犯罪は最悪なものです。しかし、美術において自分が描く為に選択する体型に対し、批判的な目で観察するのはどうでしょうか。

人物デッサンのクラスでは、体の動き、筋肉、骨格などを勉強するために、様々な体型のモデルを起用します。プロポーションや体重は人それぞれなのに対し、骨や筋肉など、肌の中身は皆同じです。また、絵の被写体を選択する制作過程では、誰にでも異性に対する外見のタイプは存在します。黒髪の女性が好きである、大きい手の男性に魅力を感じるなど、人が出会う時に容姿はまず一番初めに目に入ります。女性生徒が先ほどのような発言をしたのは、キャンバスに具現化された典型的な女性の理想像を「悪」であると認識したからです 。

理想像は悪ではありません。理想とは、個人が最も望ましいと感じられるものです。男性生徒は、自分が描きたいと思った女性の体型を選びました。それは、彼の"タイプ"であり、女性を軽蔑するために選んだものではありません。もし全てのアートに対し女性生徒の意見が適用されるのであれば、描くために選択された特定の花や動物の種類までも批判することになります。

今回のクリティークで、女性生徒は現在進行中の女性の権利運動に対するコンセプト、そして男性生徒が被写体として異性の視点から選択した体型のタイプ、という異なった意図を完全に混同させてしまったと言えます。

現在のアメリカでは、女性が権利を支持するあまり、女性は強くなければならない、すなわち従来の女性らしさと言われる全てを取り除かなくてはならないと考え方があまりにも増加していると感じます。強い女性は魅力的ですが、それは女性特有の柔らかさや丸みを失ったという意味ではありません。また、全ての男性画家が、感情を害するような性の対象として女性の被写体を選ぶわけでもありません。個人にはそれぞれの異性のタイプや好みが存在し、それは卑猥なものどころか、むしろ相手を魅了する人間の素晴らしい美徳だと言えるのではないでしょうか。

Me Tooムーブメントが拡大する一方、美術教育の場では、人間の性的魅力と異性の軽視という全く異なる二つの概念を混同させ、攻撃的な発言をする若い女性生徒が目立っています。美術には様々な表現方法があり、芸術家には何を主題にするのか選ぶ過程があります。今回のクリティークであったように、ある特定の事柄に対し、批判的になる人はどこにでも存在するでしょう。しかし、一体何を判断しようとしているのか、自分の観点や視点は一方通行になっていないか、女性としてではなく、まずは個人として蕩然たる視野で考えられる能力を備えなければならないのではと思います。