車が行き交う一般道路のすぐそば、フェンスの向こうに、巨大な倉庫のような四角い、コンクリートの建物が、2棟ならんで建っている。台湾第四原発である。台湾では「原子力発電」のことを「核電」というが、独裁政権時代の戒厳令下、3地域に6基の原発が建設され、稼働している。第四原発の建設は、1999年から、台北(タイペイ)に近い基隆(キールン)郊外ではじまった。1号機は日立、2号機は東芝製の原子炉だった。そのころには、民主化闘争によって戒厳令は解かれ、反対運動がはじまっていた。
2000年、第四原発中止を公約にして、民進党の陳水扁(チェンショイピエン)政権が誕生した。が、まもなく陳政権は公約に違反し、日本の原発メーカーからの購入を認めた。このため反対運動はさらに激しくなった。
民主化運動の闘士として投獄され、家族3人がテロによって殺害された弁護士の林義雄さん(73)が、昨年4月、「核電四号」の廃止をもとめて、一週間の決死的ハンストに突入した。これに呼応して、街頭で「市民的不服従」の座り込みがはじまり、5万人までに膨れあがった。当局はついに「1号機の稼働は見合わせる、2号機は工事停止、今後は国民投票で決定する」と発表した。
■若者中心のデモ、うらやましい
昨年暮れ、台北の事務所で取材した台湾環境保護連盟の劉志堅副会長は、反原発運動の歴史について、次のように語った。
「最初のころは、建設計画が明らかになって20年たっても原発が完成しないことに、市民たちが不信感をもつようになった。やがてメディアも反原発運動をカバーしはじめた。2011年の東日本大震災による福島原発事故のあとは、さらに批判の声が強くなった。いまはウェブサイトの情報で、若者たちが集会やデモに集まってきます」
台湾のデモは、若者たちが中心である。それが日本との違いである。劉さんと話していて、私はうらやましくなった。日本の原発反対集会は、中高年層が大半を占めているからだ。
台湾の原発は第一、第二、第四原発が台北に近い、島の北端。第三原発だけが島の南端に位置している。北側では活断層が海にむかって走っている。地震、津波のほかに、大噴火の危険性も高い。
火山列島なのに、原発を50基ほども抱えている日本での原発事故は恐怖の対象だが、さらに小さな島である台湾で事故が発生したなら、逃げ場はない。
昨年11月、ピースボートのツアーで台湾に来たとき、インドの反原発運動の活動家も一緒にいた。彼はすべての生命の生存権を求める裁判闘争を主張していた。事故の被害は、人間ばかりではない。福島の原発事故のあと、避難地域に大量の牛が放置された。牛の死骸の写真をみて、彼はショックを隠せなかった。もっとも神に近い動物として、宗教的に大事にしている牛の残酷な受難は、耐え難いようだった。もちろん、逃げ遅れた人間のいのちは、もっと大事なのだが。
私たちは、東京で反原発集会をひらくときには、韓国や台湾のひとたちにも参加してもらっている。私は「これからは、インドやインドネシア、フィリピン、核の捨て場にされそうなモンゴルのひとたちとも連帯する運動にしたい」と劉さんと話し合った。
台湾では2016年に総統選挙がある。原発反対の民進党が勝てば、まず第四原発の廃止、そして残る3原発の廃炉運動に弾みがつく。台湾の息の長い「民主化闘争」である。
(2015年2月12日「AJWフォーラム」より転載)