「犬や猫の世話は、旅のように、自分の魂が育つ”物語”」。糸井重里氏が語るアニマル・ウェルフェア(後篇)

2日間にわたり、「アニマル・ウェルフェア サミット2017 〜動物と人の笑顔のために〜」が開催されました。
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昨年に続き、8月27日(日)、8月28日(月)の2日間にわたり、一般財団法人クリステル・ヴィ・アンサンブル主催の「アニマル・ウェルフェア サミット2017 〜動物と人の笑顔のために〜」が開催されました。その模様の後篇をお送りします(https://www.huffingtonpost.jp/nekojournal/animal-welfare_a_23209057/前篇はこちら)。

■本人の希望が伝えられない病人と犬や猫は、まったく同じ

滝川:私たち財団では「"アニマル・ウェルフェアに基づいた"殺処分ゼロを目指す」と、最近はみなさんに発信しています。なぜかと言うと、殺処分ゼロという言葉を、みなさんも、もう当たり前のように耳にすると思うんですが、その「ゼロ」によっていろんなひずみが出てきている事実も、あります。

というのも、ゼロという数字に追われてしまうことで、本当は、もしかしてすごく重症で生きているのが辛くて、ケガもしてたりとか、これ以上苦しみを与えることが必要なのかという子も生かしてしまってゼロにするとか。アニマル・ウェルフェアの定義にある、その子たちの苦痛を無視して生かすことがいいのかどうか。

そういったことも含めて、ゼロばかりを追いかけてしまうと、実際には動物を苦しめてしまっているという例も、やはりいろいろあるんですね。そのあたり、糸井さんもいろいろお気づきの点はあるかと思いますが、いかがですか。

糸井:痛くないように、っていうのは、ものすごく大きなことだと思っています。犬や猫のことを考えるとき、同時に自分のことを考えているんだと思うんです。自分だったらどうかと言う。僕が「自分だったら」というのは、自身が元気なうちに考えておくべきじゃないかと思っていて。

例えば、滝川さんのご家族が、最後にどこまで治療するかを判断するときには、本人の希望は言えなくなるんですよね。犬や猫って、そういう病人とちょっと似ています。僕は、元気なうちに「俺がこうなったときには、(治療を)やめてくれ」と書いておこうと思ってるんです。

こういう状態になったときには、こうしてくれと。そうしたら、家族の人たちが、悩まなくて済むと思うんです。犬や猫もまったく同じで、彼らは言えないんです。ロールプレイングという意味で、若いときに犬と猫と話し合えたらいいと思うんです。

滝川:犬猫が若いときにですね。

糸井:その気持ちで「どうだろうか」と一度想像した人たちが判断しないと。ゼロっていうのは、血の通ってない言葉ですから。もっと血の通った言葉として、生きるってこととか、命を研究されるってこととかを考える必要があるんじゃないかなと。

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猫ジャーナル

滝川:ゼロが、血の通ってない言葉と仰るのは、だからこそアニマル・ウェルフェアに基づいた(殺処分ゼロ)と、私たちも言うんです。本当に、ゼロを追い求めることが、実際には動物たちのためになっているか? という問題も出てきていて。保健所でもそうなんですが、松原さんは現場によく行かれているので、保健所の方がゼロにするために(一生懸命何をしているか)、保護団体の立場からの話をしていただけると。

松原:ゼロを達成している自治体って、けっこうたくさん出てきています。もちろん、自治体のみなさんもものすごく努力されて、純真な方もたくさんいらっしゃるので、そこは大事にしたい。ただ、自治体のみなさんがどのような仕事を与えられているかという、シビアな声は無視はできない。

「殺処分ゼロにぜひしてほしい」「殺処分してほしくない」という声が大きい自治体では、職員さんたちには、どうしてもプレッシャーがあります。だから、本来だったらもうちょっと早く、滝川さんの言われたような、苦しんでいる動物を安らかに眠らせてあげるという判断が必要かもしれないです。

例えば、動物愛護のための施設が少ないので、収容する場所が少ないのにも関わらず、たくさんの動物たちが、その場所にいざるを得ないという状況になっている。その先の団体さんのところにもたくさん(保護動物が)いて、彼らのところで、十分なケアができない動物たちがいるという、本当に殺処分ゼロの問題がいろんなジレンマを生み出しています。やはり一番苦しんでいるのは動物たちで...。

滝川:保健所も、(動物で)いっぱいになっているところは、保護団体にどんどん移行させていますが、今度は保護団体の人たちがいま大変な状況なんですよね。保護団体への寄付は個人からしか来ていない、民間からも国からも、支援されていないので。

でも、国や自治体は(殺処分数を)どんどん減らしたい、ゼロにしたいから、保護団体に「持っていって」という感じで。本当に保護団体の方たちが苦労していると言う。だからこそ、国の支援だったり、都の支援だったり、というところをしてほしいと思っているんです。

糸井:熊本の震災が、その問題を大きく投げかけたところがあります。「ゼロ」を最初から言っちゃったんです。おかげで、ボランティアの人たちが足りなくなったり、収容施設が足りなくなったり、引き取る人たちも、実は足りなくなったり。近隣の場所というのが、そんなに大きな都市ばっかりじゃないんですから、家で面倒を見てくれる人も足りなくなっちゃって。うちの社員が運転手になって、3度くらい熊本へ行ってますね。

つまり、熊本の震災で保護されている犬や猫を、東京で引き取らざるを得なくなって。それはいまのゼロの話と直接関係ないんですけど、かなり厳しい環境の犬や猫が、生かされすぎている状況もあったみたいですね。

滝川:私たちも反省すべきところというのは、「ゼロ」というスローガンを掲げて始まったところもあるんですが、そのなかの大事な、血の通ったケアというのがなくて、そこまで一気に飛んでしまうと、そこはやり方として、ちょっと残酷な部分が出てきてしまうというのは、実際あります。

■「犬や猫のことは、人間自身の話だと思うこと」を、教育のなかに

糸井:決まりとか規則っていうのは、永遠に矛盾が出るものだと思うんですよね。その矛盾を分かっていながら、なにか言葉にしていったのが、たぶん、本当は宗教だったと思うんです、昔は。「汝の隣人を愛せよ」という言葉は、具体的なルールを語ってないんだけど「その考えでこれに向かいなさい」という風に考えたら、解釈の仕様と、ある程度寛容な考え方ってのが生まれると思うんですよね。

してほしいことをしなさい、とか、してほしくないことをするな、であるとか。宗教とか、倫理で昔の人が考えたことを、いまこそ、あいまいなままで行動するべきときが来てるんじゃないかな。決めれば決めるほど、逃げ水のように、ルールって言うのは、細かい部分を作っていかなければならなくて。

それよりは、誰かと誰かを、子どもと子どもが話し合っても「だって人がしてほしくないことするな、って言ってるじゃない」っていう言葉で、殺処分の話なんて言うのも、話ができれば良いなと思います。

滝川:日本って、欧米と死生観がまったく違うところがあって。欧米は「魂に宿る」、日本だと「体に宿る」と言われているので、安楽死だったり、そういう考えがまったく違います。終生飼育に関しても考え方がすごく違うんですよね。

糸井:その(考え方の)ぶつけ合いというのも、子どものころから、本当はしておいたほうがいいですよね。「犬や猫のことは、自分の話だ」と思うことを、教育のなかに入り込んでいってほしいですね。

滝川:まさに、教育に入れて、ちゃんと話をするということが大事なところだと、いつも思っています。

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猫ジャーナル

飼い始めてから、14年と2カ月になる、糸井さんの愛犬・ブイヨン。「犬は大嫌いな犬なんですが、あらゆる人類は好きなんです。その意味では幸せにやってます」と語る。

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猫ジャーナル

滝川さんの愛犬・アリス。東日本大震災の被災地・浪江町で取り残されていたと言う。

■ペットの「老い」について

話は飼い犬の話題に移り、スライドには糸井さん、滝川さんの愛犬が登場。なれ初めや性格などについて、エピソードを交えて紹介されました。続いては、ペットの「老い」の話に。

糸井:だんだんと老犬になると、すごく独立したものになって、それも(飼い主との)認め合いが始まりますね。なにか自分でできなくなってくると担ぐ必要があるじゃないですか。あれを、イラストレーターの大橋歩さんのところの犬が、(寝たきりになって)2階から1階におりることができなくなって、ちっちゃい大橋さんがヨイショヨイショみたいな(註:2012年12月に17歳で亡くなった、ラブラドール・レトリーバーのダルマー)。

そういうのを考えると、アニマル・ウェルフェアのなかにも、5カ条のなかのどこかに当てはまると思うんですけど、「老いた私をどう扱ってほしいです」というのを、老犬の幸せについての条文が欲しくなる時期が来ましたね。

滝川:皮肉なことに、老いてしまうから、そこで面倒を見切れなくて捨ててしまう人がたくさんいるというのが、本当に...。

司会:そういったところでは、財団のほうではお考えはあるんですか。

滝川:処分数としては犬よりも猫で、その多くはヘソの緒が付いたような子猫なんですが、保健所などでは老いた子たちもすごく多いですね。老いてしまった子は、排便など、飼い主の予測不可能な行動をしてしまうものです。

でも(その老犬・老猫の行動を人間が)自分の身に置き換えたら、いつ自分が老いて面倒を見てもらう身になるかを考えたら。どうしてそこを考えられないのかなと、もうちょっと、不思議なんですけどね。年を取ってから保護犬・保護猫を引き取るときは、なるべく年取った子を引き取るといいって言うんですよね。分かり合えるから。そう、よくシェルターの方は薦めてますよね。

司会:松原さん、現場に行かれて取材されているなかで、老犬というのは、目立ちますか?

松原:残念ながら、(里親希望の)みなさんも犬を引き取るとき、少しでも長くいっしょに暮らしたいんだなと(言う思いで、老犬が敬遠されてしまう)。やはり亡くなるのは悲しいことなので、ちょっとでも若い子がいいなと。保護犬を引き取ろうと思っていても、そういう気持ちって人間みんなあると思うし、どこの保護団体さんだけに限った話ではないのです。

仙台に行っても、老犬は必ず残っています。この間も、青森県の動物愛護センターに行きました。そこは、世に言う処分場とは別に、愛護のためだけに作られた施設です。そこにいる子は、必ず譲渡が決まるまで飼うという形ですが、やはり雑種で中型のちょっとシニアめの子たち、優しくていい子たちばかりで、飼いやすいだろうなと思うんですけど、やはりそういう子たちには、引き取りの申し出が少なくて、センターのみなさん、保護団体のみなさんも苦労しています。

■犬や猫との世話が、旅をしたのと同じような発見を、人間にもたらす

滝川:糸井さん、そういう子たちに対するアプローチ、何かありませんかねぇ。

糸井:特にはないんですが、数年前に、ミグノン(一般社団法人 ランコントレ・ミグノン)の友森玲子さんが「老犬ブームが来る」と言ったんですよ。あの人は、ある種の天才なので、老犬ブームが来ると確信したときの、確信ぶりが(印象的で)、「えーっ」と思ったんですが、実際に、いま来てる気もするんです。

Twitterなどのハッシュタグの「#老犬倶楽部 」だとか、老犬の良さをみんなで語り合う場所が、3年前より明らかに増えていますよ。つまり、老犬がグルグルまわっちゃってるというのを、困ったことじゃなくて、面白いこととして受け取る。例えば、おむつについて考えている自分の、自分の冒険心の確かめができる、みたいな。

(言い換えると)こういう(予想外の事態)のが来たときに、新しい景色じゃないですか。老犬といるっていうのは。それで自分が鍛えられてるみたいな、優しさが見えてきたりというのを、見つめるというのが、ここで老犬の会話が増えてきたことだったりするんですよね。その意味では、犬や猫との話や世話をするっていうのは、必ず自分側の発見にもなる。老犬の発見は、すごいですね。

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猫ジャーナル

(2017年9月13日「猫ジャーナル」より転載)

糸井:猫を世話してる森川君という友人がいます。猫は「メンマ」という名前で、タヌキに噛まれて(道に)落ちてて。それを保護して飼い始めたら、足がまったく動かないのです。世話がえらい大変なんですけど、森川君の人格が面白くなってきてるんですよ。

その猫が来たことで、自分が旅をしてきたのと同じように、自分の魂が育ってくるという物語でもあるのです。小さい子の(世話の)面倒臭さというのも、人間を育ててくれますけど、老犬(の世話)が人間を育ててくれるのは、ものすごく大きいと思うんです。

それはなんか、こうやってそれをテーマに語ることさえも、昔にはなかったことだった。その意味では、ブームは必要かもしれないですね。また、ペットの命を永らえさせるインフラみたいな、ペットの医療については、できたら、ある程度は行政が関わってほしいなと思いますね。

滝川:医療は本当に高いですからね。動物病院に行くとビックリするような値段です。みなさんもうなずいてますけど、それはやっぱりどうにか。

糸井:愛護団体でも、医療でパンクするわけですからね。ある程度公務員化するだとか、そういうこととかも含めて、道を作るのや公会堂を作るのと同じとかと、考えていただけたら、みんながやれることの少なさに応じて、面倒を見られるようになると思うんですけどね。

■アニマル・ウェルフェアを満たすと、それ以上のものを、ペットは返してくれる

司会:最後に、それぞれアニマル・ウェルフェアとは、どんなことなのか、動物と生活して、その上で気づいたアニマル・ウェルフェアについて語りつつ、メッセージを会場のみなさんに送っていただけますでしょうか。

糸井:犬や猫と暮らすなかで、ものすごい大好きなセリフ、言葉があります。いろんな飼育の本とか読んだときに、必ず「いつでも清潔な水を与えてください」という一行が書いてあるんですよ。あの言葉のなかに、この5カ条に近いものが全部入っているような気がするんです。

「いつでも」ということ、「清潔な」ということ、「水を与えてください」。誰も、あなたがいなければ、そのままでは生きていけませんよ、ということ、このなかに全部入っていると思います。いろんな難しいことを考える前に、いつでも清潔な水を与えられているだろうかと、自分に問いかけることはとても大事な気がしています。それは、汝の隣人を愛するのと同じで、犬や猫との付き合いの、僕にとっての「一言」です。

滝川:このアニマル・ウェルフェアには「アニマル」という言葉が付いていますが、そもそも人間が管理下に置いているものでも、動物たちのことなので、やはり私たちの心の有様だと思うんですね。どうやって思いやるか。人と人の思いやりはもちろんですけれども、やはり同じ命に対しての、思いやりの気持ちというのを、アニマル・ウェルフェアを通して、自分の心に問いかける作業だと思います。

動物と言いながら、人間の問題であるということに、私は一番重きを置いていきたいと思っています。もうちょっと、いろんなことを知って、考えて、みなさんなりに、どうやったら彼らに自由を与えられるのかと、それを真剣に考えていく。それをいろんな形でみなさんに伝えていければと思っています。

司会:松原さんは犬や猫を飼ってはいませんが、現場をよくご存じな方という立場で、アニマル・ウェルフェアについて、みなさんに一言いただけますでしょうか。

松原:犬や猫を飼っていて、癒やされるということはあると思います。癒やされるから飼っているとか、癒やしの存在ですという言い方もあると思うんですが、海外の調査では数値化されていて、「アニマル・ウェルフェアが満たされた環境に置かれた犬や猫を見ると、私たちは癒やされる」んだそうです。

この環境が担保されていない犬や猫たち、まさに恐怖に怯えていたり、痛みを感じていたり、喉が渇いていたり、苦しんでいる犬や猫を見ても、私たちは、実は癒やされないんだそうです。アニマル・ウェルフェアというのをよくよく考えてみると、もちろん動物のことを思いやって大切にすることではありますが、元々のスタートは、畜産動物を、よりよいお肉を作るためにどうしたらいいかという基準から生まれているものです。

つまり私たちがアニマル・ウェルフェアを満たしてあげることで、彼らはそれ以上のことを返してくれるんだよ、ということをぜひみなさんには、覚えておいていただきたいなと思います。

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猫という人間の庇護がないと生きていけない弱い生き物が、健康に過ごせる環境は、すなわち人にとっても良い環境であります。その意味で、「猫のためは人のため、人のためは猫のため」と言ってもさし支えないでしょう。

ここで勘違いしてはいけないのが、犬や猫の世話をする人間だって、常に庇護をする側だとは限らないことです。犬や猫に庇護されることはありませんが、講演で滝川氏が語ったように、老いや病による衰え、天変地異のような自らではどうしようもないストレスやトラブルに曝される環境で、いつ自らが「(他の人の)庇護や保護がないと生きていけない立場になるか」との、想像を忘れるべきではないのであります。

今回の講演では、アニマル・ウェルフェアの考え方を通じて、「犬猫を助けられない社会が、人を助けられるのじゃろか」という問いが、いままさに突きつけられていると感じました。今後とも猫ジャーナルとしては、拙い筆力ではありますが、かわいい猫の姿の裏には、人間による愛情や適切な世話・飼育があるのだと、伝えられたらと願っております。