言葉(言語)でわかり合えない者同士のコミュニケーションは、直感に頼るしかない。現地で「不思議なシーン」に出会ってシャッターを切っていいかどうかも直感で、ダメだろうな…という場合も大体わかる。
■歌いながら全速力で疾走する信者を追いかけ撮影
2010年、ハイチ大地震の際に激震地のレオガンに行った。自衛隊やNGOが支援活動を展開するエピスコバル看護学校の敷地のすぐ外には被災民のテントが立ち並び、コミュニティーが出来ていた。暑い日中に撮影でクタクタの私は滞在していた看護学校で夜はぐっすり寝ていたが、仲良くなった自衛隊の広報から「明け方、賛美歌を歌っている声がする」と教えてもらった。
そこで未明に起きて外に出てみると、両脇にテントが立ち並ぶ避難区域のメインストリートで礼拝が行われていたのだった。彼らはクリスチャンだと自分では言うので、説教を行っている男性が牧師か神父なのであろうが、この儀式はキリスト教ではなく土着のものであろう。おそらくブードゥー。礼拝に参加している人々は、両手を天に向かって上げて祈っていた。シンとした暗闇の中さざめくように動く人影。月明かりに照らされて輪郭が見える。邪悪なものを隠し聖なるものだけを引き出すような空気。祈っては時折歌をはさみ、礼拝は夜が明けるまで続いた。
この時は問題なかったが、ある日明るくなった早朝から礼拝が始まっていた。特別な日のようだ。やたらに雰囲気が高揚している。そして人々はいきなり走り出したのだった。避難区域のテント村を抜け、裏の空き地を突っ切り、レオガンの街の中へ。しかも歌いながら全速力で。撮影しながらだと全然追いつけない。また、途中で箒を持って踊りだす女性に出会った。いろんなことが理解不能のまま、とりあえずシャッターを切り続けた。そしてはぐれないように必死で最後尾に付いて行くと町の教会に到着した。
走り出した群集を追いかけている途中でなぜか箒を持って踊りだす女性が…ハイチはとてもきちんと掃除をする習慣がエチケットとしてあるようで、彼女も朝の掃除で通りを掃いていたと思われる
■教会のステージで「GOD BLESS YOU!」を叫ぶ
地震でダメージを受けた教会内ではなく、敷地の屋外での集会だ。テンポのよい説教と祈りの言葉が発せられた後、人々は太鼓やオルガンなどの伴奏つきで激しく踊りながら歌い始めた。ハイチの住人のルーツは、奴隷としてアフリカから連れて来られた黒人だ。黒人の抜群のリズムの良さ、踊らずにはいられない血のオーラをビシビシ浴びながら、何がなんだかわからないまま断りなしに撮影していた。断る暇も隙も実際なかったのだが。しかし歌いながらも厳しい視線を投げかける人が何人かいて「これは少しまずいかも」と思ったら、やはりまずかったらしく、助け舟がある人からあった。
歌が終わった後、ステージ部分に立たせられ、神への感謝の言葉などを耳打ちされ復唱するように言われてその通りにした。調子よく「GOD BLESS YOU!」などと叫んでるわけですよ、自分。本当のところはかなり焦っていたのだが、受け入れてもらえたようだった。神に仕える信徒の心はレオガンの空のように広く、自然に感謝の念が芽生えた。下手したら大勢に囲まれてタコ殴りかもしれなかったのだ。
■ヒズブッラーに参加するといって消えた運転手
2006年のレバノン戦争(レバノン紛争、レバノンの武装勢力ヒズブッラー、もしくはヒズボラと、隣国イスラエル軍の戦争)では、戦闘区域の前線の入り口南部スールに滞在し、その時に多くの民間人の子どもが犠牲となった「カナの空爆」があった。数日前まで車などをシェアしていたビデオジャーナリストの綿井健陽さんがベイルートから電話をくれて、そのことを教えてくれた。
スールからカナはそう遠くない。車を拾って遅まきながら向かうことにするが、車がほとんど通らない。困ったなあ…と途方に暮れて諦めかけた時に古いセダンが横付けしてきた。彼の名前は忘れてしまったが、カナまで連れて行ってもらう間や、その後ベイルートに向かう際にも運転手として雇って、さまざまな話をした。
ベイルートに着いたら「ヒズブッラー」に参加するかもしれない、と言っていたのが印象的だった。ベイルートから再び南部へ向かう際のドライバーも頼んでいたのだが、約束した日に彼は現れず、ヒズブッラーに入ったのだと思った。アラブ人が儲け話を理由なくキャンセルすることは滅多にないので、構成員としてどこかに配置されたのかもしれない。彼なりに自国をなんとかしなければいけないと考えていたのだろう。
先にも述べたとおり、これは国同士の戦争ではなく、国と武装勢力との戦争だった。イスラエルは最新鋭の戦闘機や米国から調達したばかりのアパッチ・ロングボウ戦闘ヘリコプターをこの戦争に投入していたが、大きいとはいえ武装組織であるヒズブッラーの使える武器は限られていた。それでもイスラエル軍の圧勝とはならず、停戦合意がなされ、総合的に見るとヒズブッラー側の勝利に思えた。破壊された村々や犠牲者の数を見ると決してそうは思えなかったが…。
■イラクで殴られそうになったり、「4人目の妻に」と言われたり
穏やかな出会いばかりではない。イラクでは売り込んできたドライバーにえらいふっかけられたので断固としてノーを貫いたら、拳を振り上げてきた。周りに人がたくさんいたので彼は非難されて暴力は振るえず終わったが、これも私が女だからこんな目に遭うのだろう。女は力ずくで屈服させるもの、女は男の言うことを黙って聞くもの、という文化が少なからず根付いている証左だ。
パレスチナでは家族ぐるみで和気あいあいと迎え入れてくれていたと思っていたら、家長の親父と二人きりになった瞬間、手を握られたり、イラクでは民族衣装の親父と記念撮影しただけで「4人目の妻に…」などと言われる始末。なるかいな!カルチャーギャップもどこまで気を使うべきなのか悩むところだ。
スリランカでは、被災地の写真を撮りに来ているのに、観光地に案内しようとするドライバーを後部座席から運転席を蹴り上げて軌道修正させるのに必死だった。とかくドライバーとの殺伐とした話はいくつもあるが、ニュースの現場では大手メディアが価格を吊り上げてしまうので、その分余計な衝突が生まれることが多かった。
■「人間、目的がないと生きられない」
現地で出会うのは外国人ばかりではなく、そこで活動する日本人も多い。パレスチナでは国連開発計画(UNDP)や国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の職員、ヘブライ大学に留学中の学生、平和活動を展開する仏教の坊さん、放浪する絵描き、活動家など多彩な人たちに会った。2012年に行った新しい国・南スーダンでは、ジョングレイ州ボルで、NGO「ピース ウィンズ・ジャパン」(PWJ)のスタッフたちや、ヌエル語の辞書を自分用に作ったヌエル族を研究する大学院生、また、首都ジュバ近郊の村の教会に派遣されていた修道女の方にもお会いすることができた。
南スーダンの首都ジュバ近郊の村で支援活動を繰り広げる教会のシスター下崎。様々なことをやんわりと教えてくれた、とても素敵な方でした
先進国の中で日本は、海外で活躍する人の割合は少ないかもしれないが、数としてはそう少なくもないと思う。彼・彼女らの辿ってきた道を聞くだけでも面白い。海外で活躍する日本人たちは、その後も大体海外を渡り歩くか、日本でも海外とつながりを持った場所で働くことが多いようだ。過去に帰国子女だったり長い留学経験があったりする人が多いのも特徴。ほとんどの人が輝いて見えたのは、彼らに目的があるからだろう。
「人間、目的がないと生きられない」と教えてくれたのはルバング島で戦争中から終戦を知らずに30年を生き抜いた小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんだった。私が思うに、貧しい国の人々は食べることが目的だから生きられる。独裁下にある人は自由を求めることが目的だから生きられる。先進国は食べられるし自由もあるし贅沢言わなければ仕事もなんだってあるから、それ以上の目的が必要となってくる。だけど目的が見つからず、本当は食べられるだけでもものすごく幸運なのに、不幸に思えて色んなプレッシャーで自殺してしまう人は多い。死なないまでも、どんよりと生きている人もいる。人はいつか必ず死ぬ。日本人として生まれたからには、小さくてもいい、目的を探して輝きながら生きていきたいものだと思う。
■プロフィール
嘉納愛夏(かのう・あいか)
1970年生まれ。神戸芸術工科大学卒業。写真週刊誌の専属カメラマンを経て、2004年からフリーになって以来、ジャカルタ暴動やパレスチナ、ジャワ中部地震など戦場や被災地の過酷な第一線に身を投じてきた。写真集に「中東の戦場スナップ」(アルゴノート刊)。
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