樹木希林さんが9月15日に亡くなった。2日後に訃報が流れてから、同じような夢を繰り返し見ている。後悔している、ある1日を思い出す。
シーンは、2016年夏の、あるホールの控え室の前から始まる。あの日、私は若手が全員招集だった高校野球地方大会の準々決勝を休み、樹木希林さんに会いに行った。
映画「あん」のシンポジウムの後だった。原作者の、ドリアン助川さんにも話を聞けるのだ。
何度も、彼女に対する質問を反芻させる。映画の予告から、これまでの記者会見、必要になりそうないくつかの映像を覚えて、いざ、彼女に質問をする。
2人の目の前に、私は小さく座った。
なぜ主演を樹木希林に選んだのか
プツン、と夢はそこで途絶える。
なぜなら、あの時私は気の利いた質問を1つもできなかったからだ。
ホールの空調が少し弱かったせいか、私が緊張していたのかは分からないが、背中にはぐっしょりと汗をかいていた。
映画「あん」が大好きだという後輩に、「私が行くから」などと先輩風を吹かせていっぱしの記者を装い、意気揚々と会場に向かった自分がいま思い出しても恥ずかしい。
めったに緊張することがないと思っていたのは、緊張するような場面が少なかったからだ、と思い知らされる。自分のなかで、乗っている思いが強いほど、口は重くなる。
映画「あん」で、樹木希林さんは主演を務めた。徳江さんという、あんこ作りの名人。そして、ハンセン病の元患者として、長い間隔離された人生を送った女性の役だ。
あの映画を見た後だったから、余計にそうだったのかもしれない。その前のシンポジウムで、彼女の話を聞いていたからかもしれない。
あの時は、「樹木希林」という人が、目の前に座って、笑みを浮かべているだけで、空気の濃さに押されていた。
しどろもどろになりながら、私は目を逸らしてドリアン助川さんに話しかけた。
「あ、あの、なんで、樹木希林さんですか。徳江さん」
ドリアン助川さんは、穏やかな表情で口を開いた。私はカメラを動画で回しながらじっと見つめる。
「このモデルは上野(正子)さんなんだけど、イメージとしては、絶対、絶対、希林さんだと思った」
希林さんのほうに手を伸ばしながら、続ける。
「そうして、出来上がった『徳江さん』なんです」
希林さんは、手をこねこねしながら、無表情でじーっと私のほうを見ている。
「映画の中で、徳江さんが『誰にでも生きていく意味がある』と、湯気の出ている木にもたれかかって言うところは、なにかもう、本人を目の前にしてこの言い方はあれなんですが、この世のものとは思えなかった。この表現がいいのか分からないんですけれども」
「ふふあははは...」突然、希林さんが笑い出した。渋い笑い声だった。
ドリアン助川さんは、希林さんの演技について続けた。
「僕らだけじゃなくて、世界中の人の胸を打つシーンだったと思います。ハンセン病は分かりにくい病気になっている。先進国では。あんこも分からないでしょう。でも、人に生きる意味はあるんだろうか、ということを問うた。あえてまじめに問うた。それが、文化を越えて伝わっている、なんとも豊かな体験をしている」
かぶせるように、希林さんが映画の感想を語り始めた。
「見えないものを撮る、それに挑戦するの」
「(監督の)河瀬さんは、見えないものを撮ろうっていう図太いところがあったから。目に見えないもの、空気とか、温度とか、そして『あずきの声』を聞くだとかね。見えないもの、聞こえないものを表現する意欲。意欲ってのがすごかったわね。だから、それに取り込んでいって、取り込んでいって...」
ジャケットの襟を手で直しながら軽く、うんうん、とうなずいた。
どんな流れだったのか覚えていないが、去り際、彼女は高校野球で砂だらけになった私のバインダーの裏に、持っていた青色のボールペンでサインを残した。そして、ドリアン助川さんもマジックペンでサインを書いてくれた。
取材先と写真を撮ったり、サインをもらったりすることは通常ない。なので、私が持っている唯一の取材先のサインは、この2人のものだけである。
汚い字で書いていた自分の社員番号と名前の横に、2人の名前が並んでいるのがなんとも不思議な気がしていた。大嫌いだった高校野球のバインダーが、宝物に変わった。
足りないところがあるから
希林さんは、シンポジウムでもその後の取材時間にも、この映画を通じて考えた自身の思いを飾らずに語っていた。
映画「あん」では、ハンセン病元患者への差別問題について切り込んでいる。
ハンセン病患者は「らい」と言われて、国の療養所に強制隔離された。1996年にこうした隔離政策を定めた「らい予防法」が廃止されたが、現代にも根強く差別が残り、映画の中でも、心ない噂によって分断される人物模様が描かれている。
希林さんは差別はいけませんね、という啓蒙的な話をするのでもなく、自身の言葉で、こう語った。
「私も、人生にいろんな出来事がありましたけれども、自分の側に原因を持ってきて考えると、なかなかいい解決方法ができるんですよ。いつまでも人のせいにしていると、全然解決しないのでね。常に自分に起きたことは、常に自分はどうだったかと考えるようにしているんですよ」
「世の中大きな事件があって、被害者がかわいそうだと思う。じゃあ加害者がひどい、で終わるのではない。どう育てられたのか、なぜそうせざるを得なかったのか、そういうことを考えるようになった」
劇中の永瀬正敏さん演じる千太郎のセリフを引き出して「『世間て怖いよね、でも一番悪いのは俺だ』っていうようなことを言う。ああ、それだって思うんです。世間を糾弾するとき、常に自分を疑ってみる」と語った。
そして話題は、1930年代から始まった「無らい運動」に移る。
「『らい』を無くす運動、っていって全国が競ったんですね。これの恐ろしさは、身近にいる人が密告するんですよね。もし私が、そういう(密告側の)立場にいたとして、1番を競っていたら、『あそこの家にもいる』『ここにいる』って言わなかったかといえば、私はやらなかったとは言えない。自分の中にそういうものはある。どうしても、そう思えるんですよ。人というものの持つすさまじさを感じた次第なんです」
「今日に至るまで、世界にはたくさんの差別がある。一番怖いのは、身近にいる、敵なんです。自分のなかにある、悪の部分を考えるんですよ」
自省の念を語りながら、最後に彼女は「人間て面白いもんでね、潤沢だと『この程度か』ってそこそこの芝居しかできないの。あんまり欠損しすぎちゃうと、欠けてるところがありすぎると、補わなきゃ、補わなきゃって力を出すんですよ」と笑った。
やり残したことばかり
この映画は、結果として樹木希林さんの最後の主演作になった。彼女に話を聞く前に、何度も見た予告編。彼女が映画への思いを話しているからだ。
「どのシーンも、これが最後なのかなあ、なんて思いながら、がんばっています」
私は、さらに経験を積んで5年後、10年後、思い描く記者に近づけたら、また彼女と話す機会があるだろうと、漠然と思っていた。私は、まだチャンスがあると思った。最後だとは思っていなかった。
私は泣きたくなる。記者としてのチャンスをものにできなかった自分に、そしてもっとたくさん、彼女に聞きたいことがあったのではないかと考え始める。そして、うなされる。
訃報を聞いて、ふとこの動画を久しぶりに目にした。
何度も見た、この映画の予告動画。樹木希林さんは最後にこう語りかける。
「あなたには、やり残したことはありませんかーー」
彼女の言葉が、今もずっと耳から離れない。