半日ちょっとでAmazonから荷物が届く社会は狂っている

こんなサービスが欲しかったんだっけ? ......と思うこともあります。もうちょっとチンタラ届いたって構わないのに。

Amazonの配送、相変わらず早いですね。商品を選んで半日かそこらで荷物が届いてしまいます。こちらはまさか半日で届くまいと思っているから、何度頼んでもびっくりしてしまうわけです。「なんでこんなに早く届いているんだ?」みたいな。

首都圏では、もっと素早いサービスも始まったそうで。

これは、Amazonが凄い......というより宅配会社が凄いと言うべきでしょうかね?

しかし、地方の国道沿いに住んでいる私のもとに、どう考えても東京の集配センターにしか置いてなかろう書籍が十数時間で届いてしまうのも、それもそれで凄いことです。便利といえば便利、未来的といえば未来的だけど、こんなサービスが欲しかったんだっけ? ......と思うこともあります。もうちょっとチンタラ届いたって構わないのに。

こう書くと、「早く届けて貰わなければいけない人もいるんだ!」「お前だって、それで助かってるんだろ?」と反論する人もいるでしょう。ええ、ええ、そうでしょうとも、そんな事はわかっているんですよ。私も、Amazonやクロネコが悪いって言いたいわけじゃないし、素早い配送に助けられた経験もありますから。

そうじゃなくて、むしろ、こういうお届け速度にニーズがあり、ひとつの"サービス"になっちゃっていること自体が、なんだか正気の沙汰じゃないなぁと振り返って思うこともあるんですよ。

これが、「輸血パックを届けたい」だとか「鮮魚を届けるには速度が命」っていうなら、それはわかるんです。鮮度勝負な物品は、然るべき対価を支払ってでも届けるべきでしょう。そうじゃなくて、あらゆる品がこんなにも早く届けてしまえること・その早さにニーズがあり、サービスの要件になってしまう事が、私には狂気じみている。

それってつまり、人間がそれだけ早いテンポで暮らしているってことじゃないですか。時間を意識した生活のほうが効率的だってのはわかりますが、個人も社会もひたすら早さと効率性を追い求めた結果、Amazonから半日ぐらいで荷物が届いて欲しい仕事や生活があり得るようになっているのは、本当は、どこかイカれていると私は思うのです。

昭和50~60年の人間が、この風景を見たらたまげるでしょうね。物流の進歩に感銘を受け、ゲームや音楽がワンクリックで買える状況にも驚くでしょう。しかし、そういった物流の進歩を前提条件として、昭和時代よりせわしないテンポで暮らす私達――しかも何事につけ速度と効率性にがんじがらめになった――の暮らし向きを眺めて、彼らはどれぐらい羨ましいと思うでしょうか。

「勤勉な日本人」を誇っていた頃に比べて残業は短くなったかもしれないけれども、就労時間中は(ひょっとしたらオフタイムでさえ)コマネズミのようにまめまめしく働いている現代人を見て、"夢のような未来だ!"って思えるものでしょうかね?

「時は金なり」「効率性は高ければ高いほど良い」といった発想は、私達が時計に親しむようになって以来、一貫して浸透してきたものです。それは必要だったのでしょう。そのことを否定したいわけではありません。

しかし、モノには程度ってものがあるでしょう? 個人においては「時は金なり」も悪くないかもしれませんが、全体のテンポとして「時は金なり」が徹底してしまった社会とは、どこか、時計の狂気を帯びているような気がしませんか? そんな風に思うのは私だけですかね? でも、江戸時代の人間どころか昭和時代の人間からみても、私達の暮らしのテンポはクレイジーにうつると思うんですよ、「あんたら、なんでそんなに急いで暮らしているんだ?」みたいに。

ところが現代人はそれをクレイジーだとは思いません。進歩的だとさえ思っています。どれほどテンポがせっかちになっても、どれほど人間疎外な暮らしが浸透しても、社会全体でやっていれば誰も赤信号とは思わなくて、長所ばかりが注目される――人類史とは、そういう「ある時代には常識でも、別の時代には狂気としか思えないような暮らし」の堆積とも言えるかもしれませんが。

で、それは現代においても例外ではないと私は思うんです。ここでは配送の話を書きましたが、デタラメじゃないかと思うことは他にも色々とあります。それらを狂気とみなして暮らすよりは、それを常識とみなして暮らしたほうが、心が苦しくならないから、たいていの人は、そういう事に疑問なんてもたないのかもしれません。でも本当は、みんな狂っているのかもしれませんよ? 時計に追われて、スケジュールを気にして、慌てて、急いで......。

(2015年11月23日「シロクマの屑籠」より転載)