人間はインターネットによって「ひとりぼっち」から解放されたのか――シェリー・タークルの改心

臨床心理学者で精神分析家のシェリー・タークルの近作、『アローン・トゥゲザー』は、実に悩ましい本だ。本の表題は「つながっていても孤独」と訳されることが多いが、彼女のいう「トゥゲザー」は、オンラインのつながりよりもむしろ、会議や会食のような状況を想定している。
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臨床心理学者で精神分析家のシェリー・タークルの近作、『アローン・トゥゲザー』は、実に悩ましい本だ。本の表題は「つながっていても孤独」と訳されることが多いが、彼女のいう「トゥゲザー」は、オンラインのつながりよりもむしろ、会議や会食のような状況を想定している。「アローン」は「自律した個人」が時として積極的に歩み入ろうとする「孤独」の境地と言うよりは、単なる「ひとりぼっち」の状態を意味しているので、あえて「一緒でもひとりぼっち」としてみた。

この本が悩ましいというのは、これまでに彼女が示していた情報社会に対する積極的な姿勢からの、深刻な転換がみられるからである。そこでまず、一つ前の著作での彼女の主要な論点を振り返っておこう。

インターネットが急速に普及し始めた1995年に発表された『接続された心』(邦訳は98)では、彼女は、1980年代から90年代にかけて、複雑系の研究の進展や、コンピュータ・シミュレーションの普及がもたらした、人間とコンピュータに対する人々の見方の変化に注目していた。

もともと1960年代末以来の人工知能論の主流は、「ルール主義」、すなわち、知能とは形式的で論理的なものだという考え方に立っていた。しかしそれに対しては「ロマン主義的」な反発も強かった。すなわち、人間は、コンピュータ的な「知能」に加えて「感情」を持つとされたのである。ところが、80年代の後半以降、知能は、人間の場合もコンピュータの場合も、「分散システム」の中に「創発」する現象だとみなす考え方が有力になってきた。

それに伴って、人間とコンピュータの境界は、二つの面で取り払らわれることになった。その第一は、「ロマン主義的」な境界の排除である。脳の研究が進む中で、人間の「感情」の基盤にある過程はかなり「機械的」で、予測も制御も可能なことが知られるようになった。そうすると、コンピュータは感情を持たないにせよ、人間が感情を持つとはどういう意味かということがはっきりしなくなってきた。

そこで、二つ目の境界に注目が集まった。コンピュータは「知能」を持つかもしれないが、人間は「生き物」だという点で、すなわち身体とDNAを持って生きているという点で、特別なのだというわけである。ところが、そこに打ち込まれた楔が「人工生命」の試みだった。「生き物」とみなせる何か、祖先の特性を遺伝的に受け継ぎながら自然選択の中で進化していく何か、が人工的に作り出せるとすれば、それも「コンピュータ」の中に、あるいは一種のコンピュータとして、作り出せるとすれば、第二の境界の意味も怪しくなってしまう。

人工知能の試みが「学習アルゴリズム」を生み出したのと同じように、人工生命の試みは「進化アルゴリズム」を生み出すとすれば、「生きている」ということばの意味も定義し直さなくてはならなくなる。同時に、「現実世界」と「シミュレーション世界」の境界もはっきりしなくなってくる。生身の人間も、コンピュータの中に棲むプログラムとしての「人工生命」も、共に「生き物」の定義に合致しているとすれば、両者を区別する理由はなくなる。そこへさらに「現実世界」の中に棲む「人工生命」としての「ロボット」が加わってきたばかりか、人間とロボットが合体した「サイボーグ」の可能性まで出てくるとなれば、人間とプログラムと機械の三者は、まさに渾然一体としてくるではないか。1990年代の半ば、人間にとっての新たな生活環境となったインターネットの世界を取り巻いていたのは、このような曖昧模糊とした状況だった。

では、と彼女は問いかける。人間同士の関わりは、コンピュータを媒介とするコミュニケーションによってどう変わるのか? それは、つながりや社会参加への私たちのニーズを満たしてくれるのか? 私たちは自分のバーチャルな行動に対してどんな責任を負うことになるのか? インターネットはまた、自分のアイデンティティを多元的なものとみなしやすくする。インターネットの上で、人々はたくさんの「自己」の間を経巡(へめぐ)りながら一つの自己を作り上げることができるようになるのか。

実際はどうか。タークルの出会った少なからぬ人々は、同時に開かれた複数の「ウィンドウ」を自由自在に使いこなして「マルチタスキング」を行なったり、ネットワークの中にあるいくつものゲーム世界の中で、自らもオンラインの存在としてのいくつもの新しいアイデンティティを持って、他の多くの人々と軽やかに結びついて、さまざまなバーチャルライフ――「リアルライフ」はそのなかの一つにすぎない――を楽しんでいた。彼女は、彼らの姿をすこぶる肯定的に描き出しつつ、自らの専門分野である精神分析の重要性を高らかに謳い挙げた。曰く、

サイバースペースでの暮らしにはたいした重要性がなく、逃避か無意味な気晴らしだ思いたがる人もでてくるだろう。だがそれは間違っている。サイバースペースの中での私たちの経験は、まじめなプレーなのだ。それを見くびることにはリスクが伴う。私たちは、サイバースペースでだれが危険に瀕しそうかを予見するためにも、また同時にそこでの経験をもっとも良く利用するためにも、バーチャルな経験のダイナミクスを理解しなければならない。私たちがバーチャルな生活のなかで表現する多くの自己についての深い理解なしに、そこでの経験を活用して現実の生活を豊かにすることなど、できない相談なのだ。スクリーン上のペルソナの背後にあるものへの自覚を私たちが深めるほど、自分の人格的変容のためにバーチャルな経験を上手に活用できるようになるだろう。


自分自身を知ることの絶対的な重要性は、いつの時代も哲学的な探求の中心だった。20世紀になると、それは精神分析の文化の中にも現れた。それこそが精神分析の倫理なのだといってもいいだろう。私たちは、この倫理の導きにしたがって、自分自身の生活だけでなく、自分たちの家族の生活や社会をも良くすべく、自分自身を知ることに取り組むのだ。... 私たちがスクリーン上の生活に意味をもたせようと努力している今日、自分自身を知るための実際的な哲学の必要は、かつてなかったほど高まっている。

だが十数年後、彼女の期待は空しく打ち砕かれることになる。