最後尾から"みんな"に付いていく人生
自分の感性というものに自信がない。
例えば、先入観を持たずに映画を観る、ということができない。チケットを取る前にレビューサイトを入念にチェックしてしまう。"みんな"の評価が好意的なら安心して映画館へ足を運べるが、反対ならもうダメだ。どんなに気になっていた映画であっても「やっぱりやめとこうかな...」と気持ちがどんどんしぼんでいく。
そんな経緯を経てようやく観るに至った「高評価」な映画が、どうにもいまいち面白いと思えない時もある。けれど、そこでも優先されるのは自分の実感ではなく"みんな"の意見だ。きっとこの面白さを理解できない自分が悪いのだろう。自分の感性が"みんな"より鈍っているのだろう。そんな風にして感想の帳尻を合わせていく自分がいる。
他の事柄でもそんな具合で、外食だといわゆる口コミサイトで「3.5」以上の評価なら、無条件でなんだか美味しく感じるし、そうでなければそれなりな気がしてくる。音楽を聞いた時も、本やマンガを読んだ時も似たようなものだ。
原因としては恐らく、いままでその場しのぎで「なんとなく」人生を歩んできたというのが大きい。自分は自分で何かをジャッジできるほど、成果を積み上げてきたのだろうか?という自己信頼感の欠如。
だからこそ、自分よりもきっと"みんな"の方が「ちゃんとしている」はずだ、という意識が拭えない。
博報堂生活総合研究所では、現在「"みんな"って誰だ?」というテーマで「個」の時代の先にある新しい大衆像について研究を進めている。
この研究に関わる立場としては当然、何かしら発見なり分析なりで寄与しなければならないのだが、私自身が上に述べたように"みんな"を疑いもせず、"みんな"に依存してしまっている。
"みんな"のモノサシによって規定される私の感性。
自分の不在。"みんな"への服従。
私はいつの間にこんなことになってしまったのだろう。
このままずっと、"みんな"からはぐれないように、最後尾から"みんな"に付いていく人生なのだろうか。
「みんなについていけない」と思ってる人は70%以上
湧き上がる焦燥感を抑えたい一心で、"みんな"に対してこんな質問を投げかけてみた。答えてくれたのは、20〜69歳の男女1500人だ。(2018年5月調査)
みんなについていけない、流行に乗れていないと思ったことはありますか?
おお、7割もの人が「自分は遅れている。ダメなやつだ」と卑下している。
ありがとう...。
心温まる結果を前に自然とそんな言葉が漏れる。
最後尾は、私一人ではなかったのだ。
ちなみに、このアンケートでは「そう思った理由」も併せて回答をお願いした。
最後尾仲間たちがどんな思いを秘めているのか、そのデリケートな部分に触れられる質問だ。
期待に胸を膨らませながらその回答に目を通していくと、晴れやかだった私の心は一転、普段以上にどんよりした曇天模様へと逆戻りすることになった。
以下、実際の回答から抜粋。
・ そもそも流行に興味がない。(男性 39歳)
・ そもそもついていく気も乗る気もない。みんながいいと思うものが必ずしも自分とっていいとは限らない。大抵はどうでもいいもの。(女性 47歳)
・ 自分自身の意志があるので真似しようとも思わない。(男性 34歳)
・ 大したこと無さそうな料理なのに見た目が可愛いだけで話題になるのを聞いたとき。(女性 24歳)
・ イベントでお祭り騒ぎしているのを冷静な目で見ている時。(男性 28歳)
・ くだらないことでバカ騒ぎすることが大嫌いだから。(男性 46歳)
・ 未だにスマートフォンを使わずガラケーにこだわっていること。(男性 64歳)
・ 「みんな」という基準を押しつけられることが好きではないので、こうしたアンケートで「みんな」の基準を求められることでついていけないと感じる。(女性 39歳)
・ 自分の趣味に合わない事。(男性 52歳)
・ 流行が嫌いなので。(男性 23歳)
・ 変なアプリで写真を撮ったり気持ち悪い躍りとかメイクをSNSにあげる。(男性 23歳)
・ 自分が受け付けないとき。(女性 31歳)
・ ハロウィン 本来の意味を取り違えて単に仮想して騒ぐだけの若者が多いのにあきれる。(女性 65歳)
・ 馬鹿になれないから。(男性 59歳)
ご覧の通り、ここに挙げさせてもらった人たちは、私のようにぜんぜん卑下してない。
むしろなんか、他人をちょっと馬鹿にしてる雰囲気すらある。
もちろん、私の期待通り「自分の感性が古くて...」「時代の流れが早すぎる...」といった趣旨のことを書いてくれた人が大多数ではあった。
だがこの「やれやれ、くだらない」感というか、"みんな"や流行を下に見るがゆえにあえて「ついていけない・乗れていない」と回答する人が予想外に多かったのだ。それは実に、約25%にものぼった。
<上の質問で「ある」と答えた人の割合を分類・集計した結果>
"みんな"から一歩距離を置く人たち。
"みんな"とあえて違う道を行く人たち。
"みんな"よりも自分が正しい、と信じられる人たち。
彼らはなぜ、そんなに自分を強く、確かに持てるのか。
自分を誇る理由は「成果型」「自然型」の2パターン
それならばと、もう一つこんな質問もしてみた。
「自分はみんなとは違うぞ」と誇らしい気持ちになったことはありますか?
先ほどの質問を裏返し、直接的に問いかけてみる。
「ある」と答えた3割の人々は前述の彼らと同様に、自分が"みんな"より何らかの部分で優れていて、"みんな"は自分より下に位置すると思ったことがあるということである。
では、彼らがどんな理由で「誇らしい」と答えているのか。
回答をカテゴリに分類・集計した上でTOP10にまとめると、以下のようになった。
あがってきた理由を2つのカテゴリに分類し、赤と青で塗り分けた。
まず青のカテゴリが、自分の行動や働きの積み重ねによって"みんな"より高い地位や能力を実際に得たというような【成果型】。
彼らが自分を誇るのは理解できる。意識的に"みんな"より頑張って成果を獲得しているのだから。いくらでも誇ればいいと思う。
驚いたのは赤い方だ。
こちらのカテゴリは極めて主観的な判断によるものであり、「自分がそう思うから」以上の根拠が存在しない。「ありのままの自分」をそのまま誇って生きている、いわば【自然型】だ。
見れば分かる通り、TOP10のほとんどがこの【自然型】なのである。
彼らにとって、自分を誇るのに"みんな"基準の根拠はいらない。
"みんな"に認められるような成果を積み上げる必要もない。
だって、もともと自分は"みんな"と違って特別なのだから。
この結果に私は少なからず衝撃を受けた。
彼らの強さを支えているのが、完全なる「自力」だったなんて。
自分の「良さ」を自分一人で信じながら、大なり小なり誇りを持って生きていく彼ら。
"みんな"に対して無駄に卑下することもない。ましてや最後尾を走る必要もない。
なんて健全で自由なんだろう。
"みんな"に囚われない生き方を
はたして、私も彼らのようになれるだろうか。
"みんな"がつけた点数よりも、自分の中の感覚を優先できるだろうか。
「分かってないなあ」とか言って、"みんな"をちょっと馬鹿にしたりできるだろうか。
追いかけ続けてきた"みんな"に、背中を向けられるだろうか。
今回の調査を通して、数字で実態を知った今、やってみれば意外と簡単なことなのかもしれない、と思えてきた。
例えば、いきなり"みんな"からばっさり切り離された生活をするのは無理でも、"みんな"を意識しながらあえて"みんな"と違う方を向くことはできる。同僚が「つまらない」と酷評した映画を観に行くのも有りだろう。
天の邪鬼なんていわれるそれも、意外としっくりくるかもしれない。
あるいは、今日だけは何があっても自分の直感だけに耳を傾ける、と決めてみるのはどうだろうか。この選択は失敗だったんじゃないか、レビューは何と言ってるのか、気になって仕方ないだろうけど、意外と一日の終わりにはどうでもよくなっているかもしれない。
もしかしたらそうするうちに、"みんな"に頼らなくても大丈夫な自分が浮かび上がってくるような気がする。
とりあえず、今度の休日はスマホを持たず街に出て、足の向くままランチをしてみようと思う。
執筆を担当した研究員
中島 健登(株式会社クラフター)
2011年博報堂入社。コピーライター・CMプラナーとして様々な分野の広告制作に携わる。
2015年から博報堂生活総合研究所。2018年10月から株式会社クラフターに所属。