「誰かに選ばれたい」と強く願っていた優等生の少女は、17歳のときにインターネットで出会った相手と恋に落ちる。18歳で結婚、19歳で出産。その数年後には、夫の起業が成功し億単位の大金が家庭に入ってきた。20代前半、「これだけあれば一生暮らせる」と思っていた。
だが、嵐の日々はそこからが本番だった。夫の浮気、豪遊、借金、逃走、そして2014年の都知事選出馬……。“創っては壊し続けていく実業家”、元夫・家入一真さんとの結婚と離婚を経て、紫原明子(しはら・あきこ)さんが手にした生きかたとは? デビュー作となったエッセイ『家族無計画』が話題の紫原さんに話を聞いた。
■「何者かにならなきゃ」1982年生まれの渇望
――堅実なサラリーマン家庭の長女として生まれ、小・中学校は学級委員長。ルール遵守がモットーの優等生だった10代前半と、18歳以降の人生ではギャップが大きいですね。
「選ばれたい」という意識がすごく強い子供だったんですよ。自分が何者かになるための機会は何であれ逃さない、みたいな、ハイエナのようなハングリー精神がありました(笑)。学級委員も自己主張の一環で、承認されるためにやっていた。
私は1982年生まれなんですが、あのあたりってちょっと変な世代なんですよ。酒鬼薔薇聖斗や西鉄バスジャック事件の犯人も82年生まれで、宇多田ヒカルさんや綿矢りささんもほぼ同世代。良くも悪くも、10代のうちから突出している人たちがどんどん出てきた世代でした。
そのせいなのか、「10代のうちに自分も何者かにならないといけない」という気持ちが強くて。そういう自分の承認欲求の強さに、高校時代はほかならぬ私自身も振り回されていましたね。私は選ばれた人間だから手から波動が出せるんじゃないと、毎晩お風呂で修行していた時期もあります。洗面器に水を張って、両手をかざして、水には触れずに念力で波紋を作るんです。……もちろん作れませんけどね(笑)。人と仲良く協調することも苦手だったから、友達も少なかったですね。
――今の時代でいうところの「中二病」みたいなものでしょうか。
そうそう。今なら結構聞く話ですよね。でも地方だったせいか学校内の同調圧力も強くて、今よりもっとみんなが一律な感じでした。女子はトイレに行くのも一緒だし、同じテレビ番組を見て、翌日は必ずその話題に花を咲かせる。そんな中で私はというと、どうしてかインターネットの方に走ってしまったんですね。
■90年代のネットは赤裸々な秘密基地だった
――90年代後半のインターネット界隈は、今振り返るとどんな雰囲気でしたか。
今よりずっと赤裸々でドロドロした感じでしたね。今のネットはFacebookなどでリアルな繋がりが反映されて、随分パブリックな場になっていますけど、あの頃はもっと匿名性が高かったし、一部の人だけに許されたインナーワールド、秘密基地という感じでした。チャットの途中で「自殺する」と言い出す子が毎晩のようにいました。
他にも、私とほぼ同い年なのに、高校を辞めて一人暮らししている子や、ボディピアスなんかで身体改造に励む子、リストカットをする子なんかもたくさんいて、そういう自己確立のやり方があるんだってことを、ネットを通じて初めて知りました。面白くてどんどんはまっていくうちに、月の電話代が8万円になって親に怒られたりしました。
――紫原さんのお子さんたち(14歳、10歳)の世代が知っている2010年代のネットの世界とは、まったく別物ですね。
でも子供たちや学校関係の人たちの話を聞くと、今は昔の不良の代わりに、いわゆる「かまってちゃん」気質の強い子も少なくないようです。そういった子たちは、かつてのチャットで私が出会った友人たちのように、Twitterの(匿名の)副アカで簡単に「死にたい」といったことを呟いてしまう。今でも、昔のネットの淀んだ部分をちょっと薄めた感じで、ネットが使われてるんだろうと思います。
既視感があるなと思いつつ、だからといって、よくあることとあんまり楽観視してしまうと、本当のSOSを聞き漏らしてしまうこともあるでしょう。子を持つ親や、教育現場の方々にとっては難しい問題ですね。
■18歳での結婚、両親がすんなりOKした理由
――メル友掲示板で知り合った家入一真さんと交際をスタートさせ、高校卒業後には即結婚。22歳と18歳という若さでしたが、家族に反対されませんでしたか。
彼はおそろしく人から好かれる人間だったんですよ。東京に出てきてからはかなりお洒落さんになりましたけど(笑)、当時の彼はダサいというか、もっさりした、22歳のわりには安心感がある人でした。実家の借金を肩代わりして苦労した経験もあって、誠実な人オーラをすごく漂わせていた。だからうちの両親も初対面で彼をすごく気に入って、「もう2人の好きにやりなさい」という感じですんなり決まっちゃいましたね。
――当時の家入さんの職業はプログラマーだったそうですが、18歳の紫原さんにも憧れの進路や職業があったのでは?
大学は一校だけAO入試を受けたんです。CMプランナーの佐藤雅彦さんに憧れていたので、彼がいる研究室のある大学に入りたかったんですが、駄目だったんで、じゃあ大学はいいや、って。もうひとつ、ジャズシンガーになりたいという夢もあったので、高校卒業後は音楽の専門学校に進学して、すぐに妊娠したので19歳で子供を産みました。
■「もう何者かにならなくていい」母になって得た安堵
――19歳で母になったことによる心境の変化は?
おかしな話ですが、出産したら、生きるのがすごくラクになりました。もう何者かになろうと頑張らなくてもいいんだ、「この子のお母さん」という1つの答えができたんだから、あとは夫とこの子が幸せになるための自分であれば社会でも認められる。そんな気持ちになったんです。それまでは「自分の立つ舞台の周りに、なんとかしてお客さんをいっぱい集めないといけない」ってずっと思い込んでいたので。
――主役だった舞台から降りることでラクになれた?
舞台から降りて、照明とか演出に回った感じです。自分の舞台に立って、主役を張って、誰よりも輝きたいと思うときも当然ありますが、それと同じように、ちょっと疲れたな、と思うときもありますよね。私の場合は、舞台から降りて裏方に回るタイミングが、ラッキーなことにたまたま、そうしたい時期と一致したんだと思います。子供が一番、子煩悩になる、という感覚ともちょっと違うんだけど、私の場合はそこがしっくりきたおかげで、ママ友たちとの、一歩引いた大人の付き合いも楽しめたと思うので、すごくよかったと思っています。
(後編は7月16日に掲載予定です)
(取材・文 阿部花恵)