本能寺の変後、光秀の直筆手紙 紀州の武将宛て
明智光秀が本能寺の変で織田信長を討った後、紀州の武将に送ったとみられる手紙の原本が見つかった。三重大の藤田達生教授(日本近世史)が11日、発表した。写しの存在は知られていたが、光秀自筆とみられる筆致などから、当時の心境にも迫る史料となりそうだ。
原本は、岐阜県の美濃加茂市民ミュージアム所蔵の書状(縦11・5センチ、横56・7センチ)で、藤田教授の調査により、光秀の筆跡や花押(サイン)が確認でき、約2センチ幅の細かな折り目などの様式から密書の特徴が認められた。コンパクトにたたみ込まれて大切に運ばれたとみられる。藤田教授は、筆跡や内容などから、光秀が天正10(1582)年6月2日に起きた本能寺の変の10日後の同12日に紀州の武将、土橋重治に宛てて書いた直筆の手紙である可能性が高いと結論づけた。
土橋は紀州の「反信長」のリーダー格とされ、手紙には、信長によって追放された室町幕府最後の将軍、足利義昭の入京を承知したとする内容が記されている。光秀は、義昭と連携していた土橋に対して「(将軍の)入京をお受けしました」と述べていた。文中に義昭の名前は出てこないが、「上意」「御入洛(じゅらく)」という貴人にしか使わない言葉が出てくることから、藤田教授は「信長亡き後、こうした表現がなされる対象は義昭のほかに考えられない」と推測した。
(朝日新聞デジタル 2017年09月12日 03時00分)
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