はじめに
慰安婦問題は、まずは、日本軍の海外駐兵が拡大するに伴い当時日本の国内(本土・朝鮮・台湾)から海外に派遣された慰安婦問題として、1980年代後半に日韓関係の文脈で提起された。議論が進む中で、軍が進駐した現地の女性による慰安所の問題も併せ議論されるようになった。概ね三つの見方が成立した。
一つは、慰安婦は、軍が海外進駐にともなって連れて行った公娼であるとする「公娼派」の見方だった。もう一つは、この対極にある見方で、これら女性は物理的な強制を含む本人の意思に反する形で慰安所に連れてこられ、その本質は、強姦であるとする「制度的レイプ派」の見方だった。
その中間に、1993年の河野談話とこれを基礎として1995年に発足活動したアジア女性基金の考え方があり、女性たちが強いられた生活は苦しく悲惨なものであり、日本政府としてその責任を認め、謝罪し、償いのための行動をとるというものであった。「河野談話派」といってもよいと思う(なお私は、三つの立場の相克と河野談話支持という意見を、08年の『歴史と外交』(講談社新書・第二章)及び "East Asia's Haunted Present"(Praeger Security International, Chapter Seven)で発表、以後一貫してそう述べてきた)。
90年代の半ばに河野談話とアジア女性基金による日本政府としての大きな方向性がでてから今日まで、慰安婦問題はゆれにゆれてきた。
慰安婦合意
20年間のゆれの後に成立した2015年12月28日の慰安婦合意は、安倍・朴両者が、それまでの主張から一定の譲歩をしたうえで歩み寄った勇気ある合意であり、関係者を驚かせるものがあった。
「慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを表明する」と発表された安倍総理の言葉は、かつて安倍総理自身が批判してきた河野談話の文言を直接にひきつぐものであり、10億円の政府予算からの拠出は政府予算を使わなかったというアジア女性基金に対する挺身隊対策協議会(挺対協)の批判に直接答えるものだった。
他方今回の合意の実施をもって「この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」との韓国政府の態度決定は、韓国国内において発生しうる反発に照らせば思い切ったものであった。
しかしながら、政府間では約束したことを着実に実施すべきは当然として、問題がこれで消えたことを意味しない。傷ついた方々の感情がこれで完全に癒されたということにもなりえない。安倍総理の行った決断は、2015年8月14日の70周年談話における「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせない」ための行動であると言ってよいと思う。
しかしそのことは、とりもなおさずそこに、この決断以後、「私たち日本人は、世代を超えて過去の歴史に真正面から向き合い、…謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す」ために何をしなければいけないかが問われるという、安倍談話の最も重いメッセージが正面に現れたことを意味する(拙論『朝日新聞』2015年12月30日参照)。
こうした新たな責任のあり方を研究者が問うていく時期の到来を予期したかのように、朴裕河・世宗大学教授の『帝国の慰安婦』が出版されていたのである。
『帝国の慰安婦』
2013年8月に韓国語版が、2014年11月に日本語版が出版された『帝国の慰安婦』は、その勇気と覚悟をもって、多数の日本の読者を驚かせた。
第一に、慰安婦の証言を通じて、生命の危険にさらされる苛烈な戦線にいた慰安婦が、前線で戦う兵士との間に「共に戦う」という言わば「同志的」関係の下にあったという事実を、心理的・社会的な現象として本書の前半において生き生きと描き出している。
第二に、しかもその証言は、朴裕河氏自身が行ったインタビューに依拠するものは一つもなく、大部分は、挺対協自身が集めた膨大な証言集を丹念に読み解く中から選択されてきたものである。それは、著者自身が述べているように、慰安婦の状況の網羅的ないし全体状況の縮小的描写ではない。しかし、いかなる意味でも「捏造」とは言い得ないものであった。
第三に、けれどもここで語られる慰安婦の心理的・社会的実情は、これまで「制度的レイプ派」の人たちによって一貫してつくりあげられてきた、「日本軍ないし日本権力による純粋な被害者」という慰安婦についての固定観念を壊すものであった。更に、韓国人慰安婦の調達と慰安所の経営にあたり、韓国人社会の一部が参加してきた実態を慰安婦の証言の中から浮かび上がらせることによっても、「制度的レイプ派」が創ってきた固定観念に挑戦しているのである。
第四に、慰安婦支援として行われている様々な韓国内の「運動」に対する朴裕河氏の批判は呵責がない。挺対協が、初期の段階で挺身隊と慰安婦を混同したこと、アジア女性基金の真剣で善意を持った活動を韓国社会から遮断したことが述べられる。当初は7名、最終的には61名の女性がアジア女性基金の償い金をうけとっていながら、挺対協によって「非国民」として社会的に排除され、カミングアウトできない経緯も、当然にここに付け加えられるだろう(拙著『危機の外交』159ページ参照)。
現在も元「慰安婦」の一部の方々が共同生活を行う福祉施設「ナヌムの家」についても、ここは「完璧な被害者の記憶だけを必要とした空間だった」と、その運営者への批判は辛辣である(『帝国の慰安婦』145ページ)。
しかし最も鮮やかに描き出されるのは、「大使館前の少女像は、協力と汚辱の記憶を当事者も見るものもいっしょになって消去した<まったき被害者>としての像でしかない(『帝国の慰安婦』155ページ)」という慰安婦少女像に対する、厳しい批判であろう。
第五に、本書全体を読めば、これが、帝国という構造をつくり、その中に構造的な植民地をつくり、その中に構造的に韓国の女性をまきこんだ日本帝国とその植民地主義に対する鋭く本質的な批判の上に成り立っていることは明瞭である。「制度的レイプ派」に対する批判は強烈であるが、「公娼派」の議論にも全く与していない。
本書がこの問題に関心をもつ多くの日本人、特に「河野談話派」ともいうべき日本の「中道リベラル」の強い関心と支持を集めたのは、言わば当然のことであろう。
「制度的レイプ派」による批判
しかしながら、本書が、植民地時代の歴史において、韓国人が決して認識したくないこと、即ち、自らが植民統治と一体化した部分があったことを、慰安婦とその周辺に生きた人々と言う言わば最大の聖域に踏み込んで叙述している以上、その聖域をつくりあげてきた「制度的レイプ派」の朴裕河氏教授に対する批判は、激烈なものとなっていった。
2014年6月に彼らの支援の下に元慰安婦から①名誉棄損(刑事)、②損害賠償(民事)、③本の販売禁止等の仮処分(民事)の三つの訴訟が提起された。2015年2月③について一部敗訴(控訴)。同年11月18日に①について刑事起訴。2016年1月②について敗訴(控訴)。現在①の名誉棄損刑事裁判だけが進行中である。
2015年12月28日以降は、日韓合意が日本に法的責任と犯罪性を認めさせていないとしてその全面撤回を求め始めた挺対協他の「制度的レイプ派」の行動は、朴裕河教授の刑事訴追支持の運動と併行的な形をとるようになった。
「制度的レイプ派」たる日本のいわゆる左の論客が一斉にこの動きを支持し、日本語・韓国語・英語による発信を強化、その批判は、2015年11月26日朴裕河氏の刑事訴追に抗議して声をあげた54名(私を含む。本稿執筆の時点で67名、http://www.ptkks.net参照)の日米の言論人他、いわゆる「中道リベラル」派にも向けられている(http://fightforjustice.info/?lang=ko参照)。
しかしながら、この「制度的レイプ派」の動きについて以下の点をのべておかねばならない。先ず、「慰安婦の声をきかずに日韓政府が勝手に合意をした」という批判については、朴槿恵大統領が2016年1月13日の記者会見で、「外交省は各地で15回にわたり、関連団体や被害者と会い、多様な径路を通じて本当に何を望むか聞いた」という明確な反論を行い、挺対協もまた、少なくとも2015年の春頃から明らかに柔軟対応をとり始めていたという情報があるということである(拙著『危機の外交』160~161ページ参照)。
他方において朴裕河氏に対する名誉棄損についても、朴教授訴追の主先鋒となっているナヌムの家の安所長は二名の元慰安婦とともに2016年1月来日、衆議院会館での講演で、元慰安婦に対し本書の問題点を説明するために「抽出された百数十カ所の問題とされた箇所を何度も朗読した」と述べたというのである。作為的につくられた「名誉棄損」という罪状であるというのなら、韓国における言論形成について深刻な疑問をもたざるをえない。
おわりに
「制度的レイプ派」と「河野談話派」との間の溝は限りなく深い。
けれども、そのような対立と見解の相違は、歴史への真摯な対峙という立場を共有し、辛抱強い対話と相互理解への希求によって乗り超えるべきではないのか。
これこそ、法律上の犯罪としての「名誉棄損」によって一方の見解を排除することを、絶対にしてはならない問題と考えるべきではないのか。
韓国・日本・世界の心ある言論人は、更に心を尽くして、朴裕河氏の法的訴追と言う言論による暴力をやめさせるべく、一層声を大にするべきではないのか。
朴裕河氏の刑事訴追に抗議するリーダーであり、2016年4月28日、突然幽冥境を異にされた畏友若宮敬文氏を偲びつつ。