語って、歌って、踊りながら紡ぐ「歴史」ーアフリカ1周の旅を通して学ぶ「アフリカ史」

私は2013年の11月からオーバーランド・トラックに乗ってアフリカを1周しています。私のこの旅の目的はアフリカの人々の「語り」から歴史を学ぶことです。
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私は2013年の11月からオーバーランド・トラックに乗ってアフリカを1周しています。現在は6ヶ月目を迎え、20カ国目のジンバブエに滞在しています。私のこの旅の目的はアフリカの人々の「語り」から歴史を学ぶことです。この目的を達成するためにクラウドファンディングREADYFOR?にて『アフリカ1周の旅を通して、人々の「語り」による歴史を学ぶ』というプロジェクトを立ち上げ、資金を頂き調査を続けています。

今回はそんな旅の中で出会った「語り、歌い、踊る」彼らの「歴史」について書きたいと思います。

■「語り」からみえてくる「歴史」

2013年のクリスマスのシエラレオネにて、幸運にも一人の女性作家に出会いました。彼女の名前はイェーマ・ルシルダ・ハンター(Yema Lucilda Hunter)といいます。1943年に首都フリータウンに生まれ、そこで図書館司書として半生を送ったそうです。現在は相次ぐ紛争のためガーナのアクラで生活しているといいます。

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ハンターに「シエラレオネの歴史について知りたいんです」と話すと、「なんて物好きな日本人もいるものね」と言って嬉しそうに語ってくれました。

私がフリータウンのことを書き始めたのは、司書だったからよ。19世紀の中頃にイギリス人の女性がノヴァスコシアのこと(イギリスの解放奴隷が「新天地」として植民した都市。この植民に失敗した結果、イギリスの解放奴隷はシエラレオネへと向かった)について話していたの。そこで、自分自身の生まれ育ったフリータウンのことについて興味がわいてきたの。私は図書館のデータの調査を兼ねて、ストーリーを書いたのよ。そう、「語り」というよりも事実をわかりやすく伝えるというのかしらね。それで書いたのが1冊目の本"Road to Freedom"(「自由への道」)なの。


この本が日の目を見たのは偶然なの。私はよくまとまらない文章をとにかく書き溜めて、それから最後に文章全体を整えていくの。まるで、彫刻作品を作っていくように書いては全体を眺めて削っていき、調和をとるのよ。そんな文章をたまたま夫の友人に見せたの。それで、「こりゃあ、おもしろい」ってことで出版よ。ちなみに、この友人がナイジェリア人だったからナイジェリアで出版されたの。


私がフリータウンの歴史を書くときに難しいことはね、フリータウンに住むクリオの人々はどうしても他の地域の人を蔑んじゃうってことなの。これは本当は単なる「誤解」なんだけど、チーフたちは未だに差別意識を持ってるわ。若い世代からは変わっていってるのかもしれないけどね。


フリータウンも随分変わったものよ。私が幼かった頃は、もっと人口が少なかったし静かでいいところだったわ。たしか、1980年くらいまではいいところだったわ。ちょうどそのころアフリカ統一機構(アフリカ連合(AU)の前身)の会議とかがフリータウンであって、国の財政が苦しくなってきたの。紛争が深刻化しだしたのは、そのころからだわ。


現在は紛争は終わったけれども、まだまだ多くの問題が残っているわ。若者が未来を見られないの。それでも、紛争前と今と違うのはイギリスやアメリカの兵隊が丘の上から町を監視しているということかしら。彼らは紛争を抑止する力にはなると思うわ。


まだ問題は山積みだけど、すぐにでもシエラレオネに戻ってくるつもりよ。なんたって、暮らしやすいし、家もまだあるし。シンプルな家だけどいい家だよ。

彼女との出会いは、民話や寓話などの「語り」を中心に「歴史」を描こうとしていた私の考えを大きく覆すものでした。図書館司書としてデータをわかりやすく伝えるために物語にしたのです。しかしながら、彼女の作品にも「語り」と共通する面を垣間みることができます。

ある事実から物語を作り、事実そのものに捕らわれず、その事実が持つ歴史的、文化的、政治的な意義を伝える「語り」がアフリカには沢山あるのです。日本のことわざであっても、ことわざにまつわるエピソードがあって、それを「語り継ぐ」ことでそのことわざのもつ意義を保存しているのではないのでしょうか。事実からわかりやすい物語を紡いで人々へ伝えていくというのは、むしろ「語り」の性質を最大限に利用したものなのかもしれません。

■「歌」からみえてくる「歴史」

シエラレオネのお隣の国ギニアでは「歌い継がれる歴史」に出会いました。

心地よい夜風の中、コラの調べが聞こえてきます。コラとは西アフリカのサヘル地域を中心に使われている竪琴です。ひょうたんを半分にして毛皮を張った共鳴体に、長い柄がついておりその先から共鳴体まで弦が引いてあります。コラの演奏と歌はマンディンゴ人のグリオです。グリオとはときに「吟遊詩人」と訳されますが、簡単に言うと「歌い手(語り手)」のことです。

彼らは叫ぶように歌い、鼓動を刻むがごとく楽器を弾き鳴らします。これは実際に体感しないとわからないと思いますが、彼らの鼓動が楽器に伝わり、音になり、私の鼓動に伝わり、気づけば彼らの演奏と自分の鼓動がシンクロしているのです。

静寂なる鼓動のリズムを切り裂くように、叫びのような歌が始まります。私の鼓動も合わせてリズムを失い、呼吸が苦しくなる感じがしました。まさに、「魅き込まれる」ような演奏です。

歌の内容は、故郷を追われたマンディンゴの人々の故郷を想う悲しい歴史の歌です。一緒に暮らしていた家族を失い、不慣れな場所へと追いやられ、懸命に乾いた土地を耕すも、生活は楽にならず・・故郷よ・・。「ブチッ」という音ともに暗闇が襲いました。停電。マイクの音は途切れました。それでも、彼は歌を続けます。より一層激しく、弾きならし叫びます。故郷よ・・故郷よ・・故郷よ・・・。

ただただ、故郷の名前を繰り返し続けます。被抑圧者はときとして「語る」ことさえ許されませんでした。彼らはさまざまな感情を込めてただただ故郷の名前を叫び歌うことしか許されなかったのです。「故郷よ・・」という彼の叫びの背景に、どんな「歴史」があり、そして現在へと続いているのか。想像力と知識を最大限に動員して、彼の歌に耳を傾けました。

■「踊り」からみえてくる「歴史」

西アフリカの小国トーゴではエウェ人の舞踊に出会いました。エウェの人々は隣国ガーナ南部を中心に居住しており、多くの奴隷を送る奴隷貿易の仲介者でした。しかし、ガーナ中部を中心としたアシャンティ王国の伸張により力を弱め、ここトーゴに逃れて来たと言います。奴隷貿易の蜜も毒も味わった、まさに時代に揉まれた人々と言えるでしょう。

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そんな彼らの音楽ですが、1時間のパフォーマンスのうち、前半30分は伝統的な音楽を中心とする演技で、後半30分はアクロバット・ショーでした。前半の演技の終盤で、非常に興味深いダンスがありました。3人の若い男が木彫りの銃の模型を持って、敬礼をしたり腕立て伏せをしたりします。そして、子どもが動物を演じて、男たちによって狩りがされるというものです。一見すると動物狩りを演じているように見えますが、裏の文脈では奴隷貿易の歴史が垣間見えてきます。

なぜなら、銃はまだしも動物狩りをするために、敬礼や腕立て伏せをすることは考えられません。また、動物狩りを描くのであれば大型の動物を捕らえる方が華があるですが、ここでの獲物は一番の弱者である子どもでした。歴史的背景を考えると、敬礼や腕立て伏せはヨーロッパの軍隊を想起させ、弱者である子どもを捕らえる演技は奴隷狩りを想起させます。

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演じ手自身にどれほど奴隷貿易の歴史を汲もうとするという意図があるかはわかりませんが、意識的にしろ無意識的にしろ奴隷貿易という「歴史」の影響は「踊り」の中でも表出してきます。

■ なぜ今「アフリカ史」を学ぶのか

私がアフリカで暮らす人々の「語り」を聴かせてもらい「歴史」を学ぶ理由は、これまであまり描かれてこなかった被抑圧者による「歴史」は従来の「歴史」のあり方を変えられる可能性があると思ったからです。これは、既存の世界の構造に壊すことでもあります。

既存の世界を構造を壊すためには、まず自分の立ち位置を知らなければなりません。アフリカで暮らす人々と対峙するにあたって、自分がどのような存在なのかを知らなければなりません。世界の中で自分を位置づけるのは少なからず痛みや苦しみを伴います。なぜなら、私たちは生まれながらに世界の構造の中で誰かを「搾取」し、その上で生かされてもらっているからです。

私がこれを自認することは、それなりの忍耐と覚悟がいりました。自分が無意識に冒している罪の数々をすべからく認め、それでもまだ見逃している自分の罪があるということを胸に手をあてて言わなければなりません。こうして自分がどれほど多くの人々に痛みや苦しみを与えているかが実感としてわかったとき、絶望に近いような苦しみを自分自身も味わいます。しかし、それと同時にこうして社会の中で生かされてもらっている、という大きな感謝も胸に湧いてきます。

私が少なくともこうして少しは誰かの痛みがわかり、アフリカの人々に出来るだけ寄り添って書けるようになりたい、と心から思えるようになったのは私自身の心を脱構築してくれた女性学のおかげでもあります。

上野千鶴子はフェミニズムを理論化して女性学という学問を築き上げました。上野先生の著書を読む中で、私たち日本人男性は罪の意識が全くないまま、どれほど女性を押し込めて来たのかがわかってきました。これは「先進国日本」に住む私たちがいかに「途上国」の人々を抑圧してきたかと非常に似ています。

私が女性学に関心を寄せるのは他にも理由があります。女性学ではこれまでは「学問」としてあまり取り上げられなかった(学問的権威を持ち得なかった)「女の語り」を、女性のための学問である女性学をフィールドにして描くことに成功しているからです。これは、既存の社会構造に大きくメスをいれる画期的な出来事でした。

女性学の登場によって様々な学問でも「女の語り」が見直されています。その勢いは決して強いとは言えませんが、研究者やフェミニストによる地道な活動が少しずつ成果を表しています。現に私も彼女(彼)らに教えてもらったひとりです。

女性学において「女の語り」が生きる場所を得たのなら、「アフリカ的歴史学」において「アフリカの語り」が生き生きと語られる場所も見つけられるはずだと、私は思うのです。

また女性学では女性のみならず、マイノリティの連帯を呼びかけています。これもまさに今アフリカに求められている「多様性の中の連帯」と重なります。被抑圧者のための学問である女性学を通して、まだまだアフリカ学は学べることがあると思います。

さて、長くなりましたが、私の旅は残るとこ3ヶ月を切りました。現在はジンバブエの首都ハラレに滞在しています。これからはモザンビーク、タンザニ、ルワンダへと移動する予定です。東アフリカ沿岸部では鎖国時代~明治期の日本とも繋がっていた港がいくつかあります。今後は日本とアフリカの交渉史も折に触れて更新していきたいと思います。