前編‐文化遺産バーミヤンの保護と経済復興の両立‐
20年以上内乱が続いた2002年よりアフガニスタンの文化遺産復興に取り組むユネスコで文化財の復興に携わる長岡正哲(ながおか・まさのり)さんに、バーミヤンの文化遺産保護の意義や難しさについて寄稿して頂きました。
~お知らせ:本記事(後編)で登場するバーミヤン大仏再建のための技術会合及び公開シンポジウムが日本政府の支援により、2017年9月27日から30日に、東京芸術大学にて開催されました。
戦後復興が急ピッチで進んでいるアフガニスタンでは、国際社会がその緊要性に注目し急速に支援が集まりました。人道支援、教育の復興、 医療の充実、インフラ整備、食料援助など、その内容は多岐にわたって います。国の再建が着々と行われているその一方で、文化遺産地域の保護・保全に関わる問題が各地で起こっています。
過去シルクロードの要衝として栄えたバーミヤンでも、最近、至る所で村の経済発展のための急激な都市開発が進み、バーミヤンの文化的価値を脅かしています。この問題に対し日本政府は2002年よりユネスコに対し、これまで7億円以上の文化遺産保護信託基金を拠出しています。つまり日本人の税金がバーミヤンの文化復興に使われているのです。日本とバーミヤンの接点は実はこんな意外なところにあるのです。
私がユネスコの文化部主任としてカブールに着任したのが2014年の6月 です。実は今回のアフガニスタンへの着任は2回目です。前回は2004年から2008年まで丸4年間、ユネスコカブール事務所の文化担当として勤務していました。アフガニスタンで20数年続いた内乱後の2002年より、ユネスコはこの国の文化復興に取り組んでいます。長年の内戦で破壊さ れた文化遺産をどのように守り未来に伝えていくかをアフガニスタン人と共に考え、またアフガニスタン人自らの手で復興していけるように お手伝いをしています。
バーミヤンの文化遺産の核をなすのは、かつて東西二体の大仏立像が刻み込まれていた主谷の崖とそこに掘られたおよそ千にも及ぶ石窟、そしてそれらを飾る多彩な壁画です。長く続いた内戦により、それら文化遺産の多くは瀕死の状態にありました。そのためユネスコは、日本から拠出された支援により、各国専門家とともに2002年から今日までバーミヤン遺跡と文化的景観の緊急保護に取組んでいます。
イタリア隊は崩壊の危機にあった高さ38メートルの東大仏の仏龕(ぶつがん)の保護を行いました。プロのロッククライマーがイタリアから参加し、ダイヤ モンドが先端についたドリルで壁面に穴を開け、1トン以上もののセメントを壁面に注入しその崩壊を防ぎました。
ドイツ隊は破壊により散逸した大仏片の保護を行いました。破壊 された大仏片を全て仏龕から取り除くために、何トンもする大仏片は重機を使い、またパウダー状になってし まった大仏の破片は手でかき集める作業を続け、地道ながらも非常に 重要な活動を行いました。それらの一時保存のために西大仏前の収蔵庫の建設作業中に、対戦車地雷が見つかるというハプ ニングもありました。そのため、国連の地雷処理班が急遽バーミヤン入りし、専門家が安全に作業できるよう緻密な地雷のレーザー探査が行われました。
ドイツ隊は大仏片のサンプ ルを炭素年代測定し、東と西の大仏が制作された年代を解明しました。日本隊も同様の測定で、壁画が東の崖から西へと作られていったこ とを突き止めました。こうした科学的研究により、これまでほとんど知られていなかったバーミヤ ンの歴史の謎は少しずつ解明されつつあります。
我が日本隊はバーミヤン全体をどのように保護していくべ きかを検討するための保護計画作りに着手し、遺跡地域特定のための調査に携わって います。遺跡地域調査の最中に40年ぶりに新たに壁画が発見されたり、バーミヤンで二つ目の存在となる ストゥーパ(仏塔)が発見されたことは、以前新聞やテレビ等のメディアでも取り上げられましたので記憶されている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
また80パーセント以上が破壊、略奪に遭ったバーミヤン壁画の保護も引き続き行っています。わずかに残っている剥離しかけた壁画の科学的保存処理や、色素退行した壁画の保護は最優先事業です。また2004年にはフランスの考古学者が、7世紀に玄奘が記述した「涅槃仏」の基壇らしきものを 東大仏よりさらに東に行ったストゥーパの近くで発見 したことは大きなニュースとなりました。
考古学的価値と同様、バーミヤン渓谷は「文化的景観」としての価値が認められ、2003年ユネスコの世界文化遺産リストに登録され ました。 仏塔の痕跡、イスラム時代の墓地、廃墟と化したシャフリ・ゴルゴラ。 その他にもバーミヤン渓谷には、東のカクラク川と西のフォラディ川の 清流、ジャガイモ畑等が広がる緑豊かな谷、泥壁で形成された曲がりく ねった農道があり、その道では放牧された羊の群れが草を食み、農耕に 励む村人たちを目にすることができます。
一望すれば、紺碧の空の下に は、ヒンドゥークシュを代表とした7000mを越える数々の山々がバーミヤ ン渓谷を取り巻くように屹立しています。これらすべての要素が一体となって、昔から変わら ないバーミヤン特有の文化的景観をつくっているのです。
大仏の破壊に端を発したバーミヤンは、悲劇の舞台として一躍脚光を浴び、世界が注目するところとなりました。そのため、多くの国々がバ ーミヤンの復興に手を挙げました。この結果、経済基盤の復興を目的とする大規模工事が村の中で進みました。首都カブールと西の大都市ヘラ ートを結ぶ大型幹線道路の建設工事、地方行政の総合庁舎、ホテル、警察署、警察訓練センター、職業訓練センター、学校、病院などの建設ラッシュ。
この数年で多くの農地が宅地に代わり、村の中心に位置するマーケットも驚く速さで拡張されました。2005年には900件あった村の商店の数は、現在まで2000件以上にまで膨れ上がり、村の無秩序な開発が広がりつつあります。戦後復興において、地域の経済発展は非常に重要です。もちろん村には住民の生活向上のためインフラが整備される必要があります。しかしその一方で、文化的景観を含む文化的価値が破壊される可能性も同時に存在します。
文化遺産の保護とバーミヤンの経済復興の両立。一見すると相反する目的に、 ユネスコは将来的なバーミヤン渓谷保護のため、アフガン政府と海外の専門家らとその計画案を2007年に完成させました。その計画案は2013年にバーミヤン市復興のマスタープランとして国の認可を受けました。これをもとにアフガ ニスタンの中央政府はバーミヤン州政府とともに、文化遺産の保護とバーミヤン渓谷全体の発展のために、多額の経済復興支援を申し出ている各国政府や、国連・NGO、また一番重要な村人と連携しながら、現在復興を進めています。
後編に続く...