2011年3月11日午後4時21分。宮城県東松島市の安倍志摩子さんは、四畳半ほどの木の板に乗って、黒く冷たい津波の水に浮かび、漂っていた。板は、夫婦で営んでいた事務所の床。夫の淳さんも一緒だった。
そのおよそ30分前、海沿いにあった会社の事務所と自宅は、10メートルを超える津波にのみこまれた。
自宅と会社があった地区は、海と川がぶつかる河口に面していた。
水が地区に流れ込んできた午後4時前、自宅2階に安倍さん、隣の事務所2階に夫が逃げた。二人が逃げ込んだそれぞれの建物は、基礎ごと浮き上がり、押し流されていく。
途中、自宅と事務所が一瞬接近した。夫が事務所の窓から体を乗り出して叫んだ。「こっち来い」。事務所は10ヶ月前に新築したばかりだった。
「瓦屋根の自宅よりは助かるかもしれない」
夫までの距離はおよそ4メートル。安倍さんは、意を決して屋根の上を渡った。
事務所は、川を逆流する津波とともに内陸へ押し流されていく。
再びドーンという衝撃が襲う。思わず伏せた。川にかかる橋桁に事務所の建物がぶつかったのだ。安倍さんが、顔を上げた時には、建物の屋根や壁はなくなり、四畳半ほどの床板に乗って、水の上に浮かんでいた。
2人は、その後も橋桁と水面の1メートルもない隙間をいくつもくぐり抜けて漂流し続ける。
安倍さんは咄嗟に思った。「とにかく、生きてるって子どもたちに伝えないと」。ポケットに入っていたガラケーのメールボックスを開いた。
かじかむ手で打った「津波にながされた でもパパと無事 さむいけど 大丈夫」。
「子どもたちに余計な心配をかけてはいけない...」。生きるんだと自分に言い聞かせるように、送信ボタンを押した。
地震発生から津波で漂流し、救助され、夫の怪我の手当てで病院に向かうまでのおよそ8時間。
安倍さんと子どもたちを8通のメールがつないでいた。そして、「あの時」の親子の思いは、そのメールの中に今も封印されている。
最初のメールは、津波が来るより前に送られていた。
午後2時46分 緊急地震速報 強い揺れに備えて下さい
安倍さんは、夫と潜水土木工事の会社を営んでいた。2人が会社の事務所にいた時に緊急地震速報を知らせるアラームが鳴った。
夫の淳さんは、船や機材の被害を確かめるため倉庫に向かった。安倍さんは、両親を裏山へ避難させたあと、近所のお年寄りの安否を確かめに行く。
午後3時2分 「こちらはだいじょうぶ」
安倍さんの4人の子どもたちは、当時、仕事や学校で離れた場所に暮らしていた。長男は、神奈川県。次男は広島県。そして、長女と次女は仙台市にいた。
揺れの直後、広島にいた次男から一度電話が入った。電話に出るも受話器からは何も音が聞こえない。何度も何度も名前を呼んだ。しかし、電話は切れた。
気がかりだったのは、仙台にいる長女と次女だった。
「仙台もきっと同じような揺れになっている」
電波を探しながら、子どもたちにメールを送った。
午後4時21分 「津波にながされた 船みたい さむいけど 大丈夫」
地震発生からおよそ1時間後、自分たちも高台に避難すべきか迷っていた時、地区に津波が流れ込んできた。
その30分後、津波に流されたが無事を知らせる、このメールを送った。
そこから、安倍さんは夫と2人、自宅があった場所からおよそ7キロもさかのぼった場所まで流され続けることになる。
寒さが少しずつ体力を奪っていく。夫は、津波にのまれた時に、怪我をしていた。「大丈夫だよ、大丈夫だよ」震える夫の体をさすり続けた。
“圏外”と“1本”を行ったり来たりする電波の強さを示す棒。メールが子どもたちに届いているか分からなかった。
しかし、冷静にこうも考えていた。「とにかく、子供たちには余計な心配をかけちゃいけない...」。
だからメールの最後には「船みたい さむいけど 大丈夫」と書き足した。
乗っている床板がいつ壊れ、冷たい海の中に投げ出されるかは、全くわからない。客観的に見れば、とても「大丈夫」なんかではない。
それでも「生きて帰るんだ」そんな誓いをメールのわずかな文字に叩きつけた。
午後4時33分 「無事です 土手にあがった 大丈夫 心配しないで」
内陸へと流される中で、津波の流れが少しゆっくりになった。
引き潮が来る。
そう判断した2人は、乗っていた床板から、瓦礫や流木だらけの津波の中をかき分けて進み土手に辿り着いた。
ポケットに入れていたガラケーは、水に濡れていなかった。
「メールを開いたら、絶対にタイトルが最初に目に入る。だから、絶対に伝えたいことだけをタイトルにまず書いた。それだけ伝わればいいって。あとは、必要なことだけをすぐ理解出来るように、短く伝えないとって」
メールの本文には、「大丈夫」「心配しないで」の言葉を再び付け加えた。
午後5時2分 「役場に向かいます 助けてもらいました」
「大丈夫かー」対岸から消防団の軽トラックが駆けつけてくれた。荷台に乗せてもらった時思った、「私たち助かったんだ、よかった」。避難所になっていた役場を目指した。
午後5時45分 「家はもうない ひなこ あゆこをたのむよ」
避難所についた時、電池残量は赤く光っていた。
「家はもうない」。タイトルはそうした。
避難所では、「宮城の沿岸の町はどうやら全てダメらしい...」そんな情報が流れていた。
気がかりだったのは、あの日、部活の練習で仙台にいた次女だった。末っ子で甘えたがりな性格だった次女、不慣れな場所で避難できているか心配だった。
「いつ迎えに行ってやれるかなんて分からない」
「ひなこ あゆこをたのむよ」。すでに社会人として仙台にいた長女に、次女を託した。
午後5時49分 「Re:家はもうない 了解 生きてればオーケー」
メールを送った4分後。携帯が鳴った。神奈川県にいた長男からだった。
「了解 生きてればオーケー」、返事はそっけなかった。
震災からしばらく経ってから、あの返信について長男と話した。
「家はもうないってタイトルにびっくりしてしまって、でも、とにかく生きてることだけは分かったから、生きてればオーケーかなって」と長男は笑っていた。
たった11文字の返信。でも嬉しかった。
「メールはきちんと届いている」ガラケーを握りしめた。
電池が尽きるまで メールを送り続けた
避難させた両親も無事だと分かった午後7時8分。
頭や耳に怪我をしていた夫が病院に運ばれた午後10時43分。
生きている。大丈夫だ。それを自分でも確認するような気持ちで、メールを送り続けた。
この8通は、津波に漂流しながらも、大切な人にどうしてもその時、伝えなければいけなかった言葉だった。
震災から10年、メールを読み返した。「全部は伝えられなかった。でも、あの8通のメールが何かを切れないように、つないでくれていたのかもしれない」そう思えた。
「メールを送り続けることで、とにかく安心させたかった。そして、生きなきゃいけない、生きるんだってことを自分にも言い聞かせたかったのかもしれない。
漂流している時も死ぬことは、全く考えなかった。他人から見れば漂流している時に『大丈夫 心配しないで』って送ったのは、“心配させないウソをついた“と思うかもしれない。
でも、私の中では、あれは“ウソ”じゃなかった。あの文字を打ったから、今生きているのかもしれない」
安倍さんは、またガラケーを握りしめた。