変わっていく被災地病院 - 小鷹昌明

震災を風化させないために、まだまだ解決されない被災地の悲惨な現実を説いたらよいのか、それとも、戻ってきてくれる人を望み、震災は過去のものとして無害を強調していった方がいいのか。
|

南相馬市立総合病院・神経内科 

小鷹 昌明

2013年5月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

「震災を忘れない!」という言葉が、二分してきているような気がする。すなわちそれは、防災意識を高めるために「地震は怖いものだし、同じ過ちを犯さないためにも、津波の備えは大切である」という意味の、前向きな「震災を忘れない!」と、「不幸な被災者を悲しみに浸らせ、もっと言うなら東電の補償を受け取るまでは、怒りや苦しみを忘れない」という、やや後ろ向きな「震災を忘れない!」とであり、それが入り乱れて混沌としている。

そして、後者の意味を発信する人たちの方が優位な立場であり、正論であり、正義のように感じられる(いや、正確に言うなら、後者の意味で用いる表現の方 が、圧倒的に強いメッセージ性を有している)風潮がある。しかし、皮肉なことに、そうした発言が、この街の翳りと憂いとからの脱却を遅らせているように (私には)感じられる。くどいようだが、あくまで私個人の意見だが。

改めて自問する。いまの時期、私たちは何を考え、何を伝えたらいいのだろうか。

震災を風化させないために、まだまだ解決されない被災地の悲惨な現実を説いたらよいのか、それとも、戻ってきてくれる人を望み、震災は過去のものとして無害を強調していった方がいいのか。

そんな問いを立てて、地元の人や支援の人、戻ってきた人、新しく移住してきた人、誰に尋ねたとしても「それは、きっと両方必要だよ」という曖昧な回答しか 得られない。だから、いまの南相馬市に「それはこうだ、こうすべきだ」のようなメリハリのある結論など出ないのは当たり前なのである。

震災関連の言説は、既に飽きられている。誰が何を説明しようが、「そんなことはない」と私をいくら批判しようが、これはもう紛れもない事実である。県外に福島の実情を伝えたいなら、私たちは論調を変えなければならない。

世の中においては、立場や視点のはっきりした情報が求められるし、そういう知見を明確にインテイクできた方が解りやすいに決まっている。しかし、私が、こ の南相馬市に関するエッセイをしたためながら説こうとしていることは、相変わらずの「世の中の物事においては、多くの場合、結論はない」ということであ る。どこをどう考察したとしても、特にそれが重要で深い内容であればあるほど、その傾向は強くなっていく。生の手がかりを得れば得るほど物事の真相は混濁 し、深く知れば知るほどその底流に潜む事実は迷走していく。結論はますます遠のいていくし、視点は徐々にボケるし、思考は枝分かれしていく。

しかし、1年をここで過ごし、さまざまな震災関連の人たちと触れ合う中で少しずつ確信したことは、「そういう混沌を突き抜けていかないことには、本当の姿 は見えてこない」ということである。そして、その姿が見えてくるまでには、途方もないほどの多くの時間がかかるし、たとえ見えてきたとしても、その情景を 短い言葉で端的に示すことなど(たとえ私のようなものがいくら弁証を繰り返したとしても)、到底語り尽くせるものではない。

そして、さらに言いたいことは、「そうだとしても、その段階を否が応でも経ないことには、些(いささ)かなりとも価値のある物事は生まれてこない」ということである。

今年度に入って、わが市立病院は様変わりした。もちろん外観は同一だし、いろいろな支援をいまだに受けているし、システムもほとんど変わっていないのだ が、一言で言えば、「人が入れ替わり、さらに増えた」ということである。そして、「それに伴い不慣れや不安はあるにせよ、かなり活性化してきた」ということである。

東京都と千葉県出身の若き初期臨床研修医2人に加えて、看護師やリハビリスタッフの新採用、秘書や事務職員の増員、臨床工学士の雇用、医学生・看護学生の 見学など、20名以上の人が刷新された。医局の机が足りなくなり、それを搬入するためにソファが撤去され、食事のためのスペースが大幅に削減された(この ため、かなり手狭な空間で昼食を摂っている)。講義室を潰し(移動予定)、事務室が拡張され、新たに医療安全管理室や感染対策室が立ち上がった。

勝手に想像して恐縮だが、当院におけるこの規模での人事異動や構造改革は、きっとはじめてのことなのではないか。わが病院に起こりつつある地殻変動の予兆を感じている。

こんなことを言っても、大学病院や大病院に勤めている医療者からみれば、「何をいまさら」と断じてしまう人もいるであろう。私も、大学に勤務していた頃 は、それはそこにあるものとして当たり前に存在していた。改めて言うことでもないかもしれないけれど、新たな仕組みの立ち上げや新規の流れの導入というの は、私たちの置かれている狭い世界からみると、きっと得難い経験になるのではないか。それが、プリミティブでプレリミナリーなことであればあるほど、"原 点に立ち返る"というか、"本当のゼロからの機動"という意味で。

この病院に勤務していて何が興味深いかというと、それは「全体が可視的である」ということである。230床の病院であるからして(看護師がいまだ足りないので、実際の稼働ベッドは150床程度であるが)、可視範囲として病院全体を見渡せる。

極端なことを言えば、一日出勤し、外来や急患対応や検査や病棟業務や会議を行うと、ほぼくまなく病院を周回することになる。栄養相談や薬剤指導やリハビリ を依頼すれば、栄養課や薬剤部やリハ室にも顔を出すことになるし、市民活動を行っている私などは手続きやら相談などで、事務室への出入りも頻回である。

可視範囲が病院全体におよぶということは、実態を大局的に、そして中立的に理解しやすくなる。機能的な動きをしている光景をみると――別に私が何をしたわ けではないのだが、頼もしさと手応えとを感じるし、逆に、不具合の目立つ場所をみると――別に私が何かをしなければならないわけではないのだが、「どうに かしたい」と思うのである。そうした意識が病院職員全体に広がれば、きっとその病院は発展していく。

確かにこの病院は、原発からもっとも近い医療機関として奮闘してきた。それはそれは、大変な苦労と葛藤であった。ようやく落ち着きを取り戻しつつあるこの 現場であるからして、こうした動きをとても喜ばしいと思う一方で、もっと俯瞰的に言うなら「きっと社会というのは、そういう過程を経ることで、やがて本来 の機能を取り戻すのだな」という気がしてくる。一歩後ろに退けるようになって、「前よりも全体像が明確に把握できるようになる」とか、一歩前に出られるよ うになって、「これまで気が付かなかった細部に気を配れるようになる」とか、そのような経緯によって。

震災から2年、「ようやく混沌から一歩抜け出たのかな」という感覚を得ている。遅ればせながら、やっとこの地にも再生の兆しが見えてきた。

さて、病院における復興の象徴は、先にも述べたが臨床研修指定病院の取得に続く、2名の初期研修医のマッチングである。4月からうろうろしている2人と、 連日意見交換をしている。もちろん、まだ来たばかりであり、彼らが何をできるわけではないのだが、「遠くからせっかく被災地病院にひとりで来たのだから、 研修以外にも自分のこれまでとは違う何かをはじめてみたら・・・、たとえば"料理"とか」などと他愛もない話をしている。

研修医がはじめてこの地にやってきた理由と、私のように20年近く大学病院に勤務してからやってきた理由とでは、おそらく大きな違いがある。彼らは、この "被災地"という何か特別な場所で、特異な技術や知識の習得を期待してやってきている。一方、私は「特別なことを期待して」というよりは、特別なことが起 こらないように、未然に防ごうとして街の再生事業に参画している。

そもそも、この街にやってきた目的が違う。彼らは、街の復興を願う私たちのバイタリティや取り組みに関心はあるかもしれないが、医療技術を習得することと、そうしたこととは、おそらく別の問題である。そこをうまく融合させ、有意義なものとして導いていかなければならない。

先月、広島大学病院の初期研修医(女医2名)が、はじめて被災地のこの病院に入った。その研修実態を地元で報道すべく、広島のテレビ局が彼女たちを追って 何日も張り付いていた。そして、2週間の被災地研修を終えた彼女たちが最後に残していった言葉が、この私たちの研修指定病院の役割におけるひとつの答えに なるのかもしれない。

『南相馬市立総合病院にボランティアの人々が多く行かれているなかで、私たちのそちらでの研修内容が広島で何度も報道されました。はじめは驚きましたが、 これが先生の言われた「医者は発信力がある」ということなのかと、痛感いたしました。いま、身の引き締まる思いがします。私の周りでも反響は大きく、母校 でも同僚や後輩たちから「研修の様子を教えてください」と頼まれています。私たちも、あと数日で医師3年目(後期臨床研修)がスタートします。本当に不安 だらけですが、先生方のように必要とされる時に、必要とされる場所で、必要とされる技術を用いて活躍できる医師になれるよう頑張りたいと思います』

私のこれまでの臨床経験は、この時期にこの土地で力量を発揮するための、大袈裟に言うなら"備え"だったのかもしれない。いずれやってくるであろう未来の 現場を見据えて、自分の振り幅を高めておくことである。私たちは、きっとこの地に来ることなど想像もしていなかった。ただ、ある種の既成事実として何かし らの運命の糸に操られてやってきた。

私たちがしなければならないことは、個々の研修医が、いずれそれぞれの現場に散ったときに、そこで自らを立ち上げ、維持していけるだけのスキルの習得法を 学ばせることである。そういう意味では、私たちの被災地での活動は、この時期に、この場所に来ることで一気に発動されたのかもしれない。

(※この記事はMRIC Vol.118「変わっていく被災地病院」より転載しました)