「8時間労働」は適切な長さか

本当に「8時間」には根拠があるのだろうか?

社畜のみなさん、お疲れさま。

今日のあなたの労働時間は何時間だっただろう?

ある人は定時退社をキメたことを誇るかもしれない。またある人は、長時間労働を自慢げに語るかもしれない。私たちは、勤勉は美徳だと教え込まれて育つ。身を削って働いていれば、それが尊いことだと信じたくなるのも無理はない。

日本の法律では、企業は社員に1日8時間を超えて労働させてはいけないことになっている[1]。原則論で言えば、じつは残業はただそれだけでルール違反だ。割増賃金を支払うなら、まあ、大目に見てやりましょう……という取り決めになっている。サービス残業など論外だ。

では、なぜ8時間なのだろう?

生まれたときには、すでに「8時間労働」が法律で決められていた。だから、私たちはそれを当たり前だと思っている。しかし、本当に「8時間」には根拠があるのだろうか? 私たちが効率的に仕事をできる──高い集中力を維持し、アイディアを生み出せる──時間は、本当に「8時間」なのだろうか?

今回の記事では、8時間労働が始まった経緯と、人間にとって「自然な」労働時間について考えてみたい。

■産業革命と8時間労働の成立

当然ながら、1日の勤務時間は初めから8時間だったわけではない。18世紀末にイギリスで産業革命が始まると、農村から都市部に人々が集まり、膨大な数の「賃金労働者」になった。現在のサラリーマンと同様、自らは生産手段を持たず、誰かに雇われて生きるしかない人々が現れた。

18~19世紀の労働者は、悲惨な環境で働かざるをえなかった。当時は、働く時間が長いほど生産性が上がると考えられていたので、労働者たちは格安の賃金で終わりなく働かされたのだ。労働時間は1日14時間、長いときは16~18時間にもなったという[2]。

この苛烈な労働環境により、産業革命の最初期には(経済全体は成長しているのに)大半のイギリス人の生活水準はむしろ低下してしまった。歴史学では「初期成長のパラドクス」と呼ばる現象だ。たとえば1875年のマンチェスターでは、有産階級の平均寿命が38年であるのに対して、労働者階級のそれはわずか17年だった。リヴァプールでは、前者のそれは35年、後者のそれは15年だったという[3]。

イギリスでは19世紀半ばに一連の「工場法」が成立した。これは「機械が労働者を残酷に支配している」という状況を憂慮した社会改革や労働運動の成果だ。この法律により、成人の労働時間は週55時間、子供はその半分にまで制限された。また女性と子供の夜間労働は禁止された[4]。このあたりの時代から、労働時間は次第に削減されていく。

以前の記事に書いたとおり、企業と労働者は対等な立場で労使契約を結ぶわけではない。労働市場は「自由な市場」ではなく、企業側が有利な立場にたつ不完全市場だ。そのため、労働者の賃金と労働環境はつねに低下の圧力にさらされる。

ところが1871年にイギリスで労働組合が合法化されると[5]、被雇用者は雇用者団体と対等な立場で交渉ができるようになり、労働市場がきちんと機能するようになった。結果はすぐに現れ、19世紀末には実質賃金が目に見えて上昇した[6]。賃金の上昇は人々の消費意欲を刺激し、さらなる経済発展をもたらした。

1886年5月1日、アメリカのシカゴで大規模なストライキが行われた。このとき、労働者たちは次のようなスローガンを掲げていた。「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、俺たちの好きなことのために[7]」……彼らは、いわゆる8時間労働を求めたのだ。1日は24時間で、1/3の8時間は休息に使われる。残りの16時間を仕事と家庭とで半分ずつに分けようぜ、という提案だった。

19世紀のヨーロッパでは10時間、9時間、8時間労働のどれが最も生産性が高いのかという実験が行われていたと言います。

 

例えば、鉄工所で8時間労働日を導入したところ、多職種に効果的だったこと。また、工場では8時間制を採用したことで労働者が活性化し、生産性の向上が見られるなどの結果が得られました。つまり、長時間労働を1日8時間にすることで、生産性が上昇するという実験結果が出たのです。

 ──「特集 人はなぜ、8時間働くのだろう」『Trace [トレース]』

そして、1919年のILO第1号条約にて8時間労働が採択された。これにより、労働時間は「8時間」が世界標準になった。日本では1947年に労働基準法が制定されて以来、8時間労働が実施されるようになったという。

興味深いのは「8時間」という基準がかなり恣意的に決められたということだ。

1日が24時間なので、それを3等分するという、小学生の算数のような方法で導かれている。なるほど、たしかに10時間や9時間よりも、8時間のほうが生産性が高いと実験で確かめられたのかもしれない。しかし、7時間や6時間、5時間ではどうだろう。そもそも私たちホモ・サピエンスは、1日何時間働くようにデザインされているのだろう?

この疑問に答えるためには、有史以前の世界に目を向ける必要がある。

■人間にとって「自然な」労働時間

地球上にホモ・サピエンスが現れたのは、少なくとも20万年前のアフリカだと断言できる[8]。なぜ断言できるかといえば、ヒトの遺伝子がよく研究されているからだ。世界中の様々な地域に暮らす人々の遺伝子を比較すれば、どれぐらい昔に共通の祖先を持っていたのかが分かる。その結果、いくつもの研究が30万~20万年前のアフリカでホモ・サピエンスが生まれたことを示唆している。

また、最近の研究者は、解剖学的な特徴と行動学的な特徴とを分けて考える場合が多いようだ[9]。どういうことかというと、生まれたばかりのホモ・サピエンスは、現在の私たちのような行動を取っていなかったからだ。芸術活動も、創意工夫をこらした道具の発明も、それほど盛んに行っていなかったようだ。

ホモ・サピエンスが現代人と同じような行動を取るようになったのは、証拠が残っているかぎりでは約3万年前。黒海の北で生まれたグラヴェット文化からだ。当時この地域に暮らしていた人々は、マンモスの骨格で家屋を建て、動物の骨で装飾品を作り、おそらく狩猟採集民の小さな集団(バンド)が集まって大きな共同体を作っていた[10]。彼らは間違いなく、私たちだった。

その後、紀元前8500年ごろには南西アジアで小麦やエンドウ、オリーブの栽培が始まり、紀元前7500年までには中国で米と雑穀の栽培が始まった[11]。ざっくり言えば、約1万年前に私たちは狩猟採集生活から農耕定住生活への移行を開始した。

そして、産業革命が始まったのはおよそ200年前。人類の歴史から考えれば、つい昨日のことだ。

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今までの話をまとめると、上記の図のようになる。

ホモ・サピエンスの歴史を20万年と考えれば、じつに95%の時間を私たちは狩猟採集民族として過ごしてきた。たとえば「都会にタヌキが現れた」というニュースに、しばしば私たちは驚かされる。森の中で暮らすはずのタヌキの姿と、都会の高層ビル群とが、何とも不釣り合いに思えるからだ。

しかし、それは私たち人類も同じだ。産業革命が始まったのは約200年前で、人類の歴史からすればわずか0.1%の時間しか過ぎていない。私たちの肉体や精神は(タヌキと同様)新宿や梅田の高層ビル群で生きるようにはデザインされていない。アフリカやユーラシア大陸の平原や森で生きるように作られているはずなのだ。

では、有史以前の人々はどのような生活を営んでいたのだろう。

もっと言えば、1日に何時間くらい労働していたのだろう。

現代にも、工業文明から隔絶された昔ながらの生活を営む人々がいる。狩猟採集生活や原始的な自給農業を営む部族が、少ないなからも残っている。彼らの生活を調べれば、有史以前の人々の暮らしを推測する手がかりになるはずだ。

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上記の表は、そういう伝統的な暮らしを守っている部族の男性の1日あたりの労働時間をまとめたものだ。狩猟採集生活や原始的な農耕と言っても、その生活のパターンは多岐に渡る。彼らと比べれば、現代先進国の私たちのほうがよほど画一的な生活を送っている(※毎朝スタバのコーヒーを飲み、空調の効いたオフィスでパソコンを叩く)。

伝統社会の労働時間は2.8~7.6時間と幅広い。ここには狩りの時間だけでなく、食事の準備や育児の時間も含まれている。中央値は5.9時間なので、だいたい「1日6時間」が有史以前の人々の標準的な労働時間だったことが推測できる[12]。

この表から分かるとおり、狩猟採集民族や伝統社会の人々は、私たちよりも余暇の時間が長い。また、すべての社会で「8時間労働」よりも短時間しか働いていない。比べて、産業革命以降には労働時間が長くなってきたことが分かる。

2016年4月の総務省の調査によれば、日本の正社員の平均的な労働時間は1日9時間だった[13]。日本のサラリーマンの場合、状況はさらに悪い。残されたわずかな余暇の時間を削って、食事の準備や育児に充てる必要があるからだ。

人によっては、こう考えるかもしれない。

こういう伝統社会に暮らす人々は怠惰で、なまけ者で、余暇をむさぼっているだけだ。だから労働時間が短いし、その報いとして貧しい生活を余儀なくされているのだ、と。

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ところが、その考え方は成り立たない。なぜなら彼らの「労働」は、目を見張るほど生産性が高いからだ。上記の表は、伝統社会で暮らす人々が生産する食糧のカロリーを、労働1時間あたりで割ったものだ。ご覧のとおり、わずかな労働時間でも高いカロリーを産出することに成功しており、その水準は産業革命初期のイギリス人よりも高い。

この表を見ると、「長く働いたから先進国の人々は豊かになった」とは思えない。どちらかといえば、私たちはあまりにも生産性が低くて貧しかったからこそ、長く働かざるをえなかったのではないか。

また、この表で興味を引かれるのは、ベネズエラのヒウィ族やパラグアイのアチェ族だ。前者では、男性の狩りの30%に匹敵するカロリーを女性が生み出している。後者では立場が逆転し、カロリーベースでは女性の産出する食糧のほうが多い。

アチェの男たちは狩りの興奮に身をゆだねるよりも、「女の仕事」に励むほうがいいということになってしまう[14]。もちろん、栄養のバランスを考えれば男女のどちらのほうが重要とは言えない。注目したいのは、男女ともに生産活動に従事しているという点だ。

ヒトには生まれながらに「男は外で仕事をして、女は家を守る」という役割分担がある──。

そう素朴に信じている人は少なくない。

しかし、その発想は完全に間違っている。

狩猟採集民の生活を見れば分かるとおり、有史以前から人類は男女ともに生産活動に携わってきた。日本でも1950年代くらいまでは、農村では女性が労働力として重宝されていた[15]。

「男は外で仕事、女は家事」という役割分担が生まれたのは、まさに産業化の影響だ。産業革命により、男たちは工場に日銭を稼ぎに出かけ、女は家庭を守るという生活が誕生した。私たちが当たり前だと思っている生活は、伝統的でもなんでもない。せいぜい200年──日本ではわずか60年──の歴史しかないのだ。

■農耕がもたらしたもの

伝統社会の人々が、わずかな時間しか働かないことが分かった。おそらく有史以前の私たちの祖先も、1日に6時間くらいしか労働していなかっただろう。

では、なぜ私たちは勤勉になったのだろう?

どうして、退屈な仕事を毎日繰り返すという習性を身につけたのだろう?

充分な食糧と安全な寝床を手に入れて、それでもなお働こうとするのは、生物として当たり前でも、自然なことでもない。

生物学の分野では、さまざまな鳥類や哺乳類の「労働」時間──すなわち、休息をしておらず、食糧の確保や移動、なわばりの防衛、社交活動に費やされる時間──が調査されている。その結果、ヒトにもっとも近い類人猿の場合、1日の平均労働時間はわずか4.4時間だった[16]。私たち現代人が、肥満や糖尿病になるほどの食糧を手にしながら働き続けるのは、他の動物に比べれば異常である。

私たちが勤勉になった理由の1つは、農耕を始めたことかもしれない。

農耕開始にどんなイメージを持っているだろう?

さらなる繁栄を目指して食糧を増産するようになった──。そんなイメージではないだろうか。しかし近年、研究者たちはまったく逆の見方をするようになりつつある。周囲の動植物を食べ尽くして、食糧の入手が難しくなったために、その順応策として農耕を始めたというのだ[17]。

狩猟採集生活は、農耕定住生活よりもさらに広い土地を必要とする。現代の狩猟採集民族は、おおむね250~500平方キロメートルの広さの土地に25人ほどの集団(7~8家族)で暮らすという。この人口密度でいけば、マンハッタン島の広さに2~4家族しか暮らせないことになる[18]。

旧石器時代の生活に牧歌的な幻想を抱いてはならない。土地とテリトリーは現代人に負けず劣らず重要だった。狩猟採集民族の生活では、暴力的な衝突は珍しくない[19]。

人口密度が一定を超えれば、周囲の食糧が枯渇することは目に見えている。大抵の場合は飢餓により人口が調節されただろうが、一部の地域では栽培化しやすい植物が自生していた。それを育てることで、農耕が始まった。

狩猟採集生活では、毎日違う猟場に出向いて獲物を探す。食糧が手に入るかどうか、毎日が挑戦だ。知識と創造力を駆使して、一家を養うだけの食べ物を手に入れなければならない。比べて、農耕定住生活は単調だ。季節ごとにやるべき仕事が決まっていて、同じような毎日を延々と繰り返すことになる。

そもそも、農耕は人類を豊かにしたのだろうか?

どうやらそうでもないらしい。というのも、農耕の開始によって人々の栄養状態は悪化し、死亡率は上昇したからだ。狩猟採集生活では、人々は多種多様な食物を口にする。ところが、農耕定住生活では食事がデンプン質に偏るようになり、人々は充分な栄養を取れなくなった

。ある古人骨の研究によれば、狩猟民の定住農耕化によって、体格、身長、骨密度のすべてが低下したという。さらに、農耕定住生活では人口密度が高くなるため、疫病が蔓延しやすくなり、死亡率が跳ね上がった[20]。

では、なぜ農耕定住生活のほうが優勢になったのかといえば、死亡率以上に出生率が上昇したからだ。

狩猟採集生活では幼い子供を連れて移動するため、乳離れに時間がかかる。一方、農耕定住生活では子供をすばやく乳離れさせて、出産の間隔をより短く、生涯で産める子供の数をより多くできる。

たとえば1963年~73年に北ボツワナのクンサン族を対象に行われた研究がある。 当時、クンサン族は狩猟採集生活から農耕生活へと転換しているさなかだった。定住した女性の出産間隔は36ヶ月で、狩猟採集民の44ヶ月に比べてかなり短かかった[21]。

女性の出産間隔が短くなると、合計特殊出生率が上昇し、ひいては人口増加率を押し上げる。狩猟採集民族の人口はきわめて遅いペースでしか増加せず、年間およそ0.015%だ。この割合では、人口が2倍になるのに約5000年、4倍になるのに約1万年かかる。

比べて、初期の農民の人口成長率は狩猟採集民族の2倍ほどだったと推測されており、1万年で人口が32倍に増える計算だ[22]。農耕が広まったのは、それが人々を豊かにする生活だったからではない。人口増加率が高かったために、狩猟採集民族を圧倒することができたからだ。

狩猟採集生活と農耕定住生活との仕事量における最大の違いは、成人の労働ではなく、児童の労働である。

大半の狩猟採集社会では、児童の労働時間は1日1~2時間程度で、その内容は狩猟、採集、漁獲、薪拾い、食物加工などの家事手伝いだ。一方、自給自足農民の児童は1日平均4~6時間の労働をしており、庭仕事、家畜の番、水くみ、薪拾い、その他もろもろの家事を子供たちが担う[23]。言葉を換えれば、児童労働は農耕の誕生によって生まれたと言っていい。

およそ1万年前、私たち人類は周囲の食糧を食べ尽くし、農耕を開始した。新しい生活は栄養状態を悪化させ、疫病を蔓延させ、単調な毎日をもたらした。さらには児童労働までも生み出した。人口が増えると社会は階層化し、国家が生まれ、現在まで続く戦争が始まった。

「見返りが労働と格差、そして戦争だとしたら、なぜ人々は狩猟採集から農業に乗り換えてしまったのだろう?」と歴史学者イアン・モリスは述べている[24]。

■8時間労働は適切な長さか?

ここまでの話をまとめよう。

伝統社会の人々は1日2.8~7.6時間しか働いておらず、狩猟採集生活をしていた私たちの祖先も労働時間は同程度だったと推測できる。彼らの労働時間の中央値は5.9時間で、これがホモ・サピエンスの標準的な労働時間だと考えていいだろう。つまり、私たちは「1日およそ6時間」の仕事をするようにデザインされている(はずだ)。

ホモ・サピエンスが誕生したのは約20万年前、生まれてから現在までの95%の時間を、私たちは狩猟採集民族として過ごしてきた。約1万年前に農耕定住生活が始まると、私たちは単調な労働が続く毎日を過ごすようになり、さらには児童労働が生まれた。現代先進国の住人のような勤勉「すぎる」生活の端緒が開かれた。

約200年前、産業革命の勃興とともに大量の賃金労働者が現れた。生産手段を所有しない彼らは、劣悪な環境で働かざるをえず、労働時間は際限なく延びた。しかし社会運動や労働組合の結成により、労働環境は少しずつ改善された。1886年のメーデーに「8時間労働」が叫ばれるようになり、20世紀初頭にILOに採択されたことで、これが世界的な標準になった。

繰り返しになるが、「8時間労働」はかなり恣意的に決められた水準だ。1日24時間を三等分するという素朴な発想にもとづいており、「私たち人類は何時間労働に適した動物なのか」「私たちが生物学的に最高のパフォーマンスを発揮できるのは何時間なのか」といった視点から導かれた数字ではない。疑う余地は充分だ。

では、私たち人類は何時間労働に適した動物なのか。

くどいようだが、「1日およそ6時間」が新たな候補として浮かび上がる。

経済学の父アダム・スミスは『国富論』のなかで、18世紀末のピン工場の様子を紹介している。素人がピンを作ろうとすれば、1日に1本も作れれば上出来だろう。ところがピン工場では分業によって、ピンの大量生産に成功した。針金を作る人、針金をまっすぐに伸ばす人、針金を切る人、針金の片方を尖らせる人……。

スミスによれば、10人の労働者で分業すれば1日に48,000本のピンを製造できるそうだ。これは10人がばらばらにピンを作った場合の240倍の生産性だ[25]。

ピンの製造のような機械的な仕事なら、分業によって生産性を伸ばせる。さらに重要な点は、労働時間と最終的な生産量が比例する。2時間しか働かなければ2時間分のピンしか作れない。8時間働けば、4倍のピンを生産できるだろう。機械的な仕事では、労働時間が長くなるほど生産量も増える。

しかし、創造的な仕事ではそうはいかない。撮影期間や開発期間が長引いたからといって、映画やゲームが傑作になるとは限らない。わずかな時間しかかけずに作ったものが、思いがけず大ヒットすることもある。たとえば『残酷な天使のテーゼ』の歌詞は、30分ほどの打ち合わせの後に、2時間程度で書き上げたものだという[26][27]。

仕事の内容から「機械的な部分」が減り、「創造的な部分」が増えるほど、労働時間と最終的な生産量とは無関係になっていく。機械的な作業なら、職場の机に齧り付いてひたすら手を動かしたほうがいいだろう。しかし、アイディアの重要性が高い仕事ではそうはいかない。いいアイディアは、往々にして、公園を散歩している最中とか、湯船に浸かったときとか、トイレに座って天井を見上げたときに降りてくるものだ。

アイディアの量と質は、労働時間とはまったく関係ないのだ。

そして現代の日本では、機械的な作業は猛烈な勢いで減っている。Excelのマクロを組めば、それまで1日かけていた作業が1秒で終わるようになるかもしれない。書類の作成や封筒の宛名書きの仕事は、インターネットを利用すれば不要になるかもしれない。今後、人工知能が発達すれば、機械的な作業はますます減り、私たちはますます創造的な仕事に従事せざるをえなくなる。

このような時代に、8時間労働が適しているとは思えない。なんとなれば、これは工業化が進んでいたころに──「機械的な仕事」が最盛期だったころに──作りだされた枠組みだからだ。情報化の進む現代には、それに即した労働時間を設定すべきだろう。

人類の歴史から考えれば、1日6時間。

アイディアと労働時間が無関係であることを考慮すれば、もっと短くていい。ホワイトカラーはもちろん、ブルーカラーの労働者でさえ「カイゼン」という形で創意工夫を求められる時代だ。

手作業でピンを生産する時代は、とっくに終わった。

私たちは、アイディアを生産する時代に生きている。

コミックス版『女騎士、経理になる。』第2巻

◆参考文献等◆

[3]ウルリケ・ヘルマン『資本の世界史』太田出版(2015年)p53

[4]グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社(2009年)下p227

[6]ウルリケ・ヘルマン(2015年)p86

[8]ダニエル・E・リーバーマン『人体 600万年史』早川書房(2015年)上p200-201

[9]クライブ・フィンレイソン『そして最後にヒトが残った』白揚社(2013年)p103

[10]クライブ・フィンレイソン(2013年)p221

[11]ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』草思社文庫(2012年)上p177

[12]グレゴリー・クラーク(2009年)上p113~115

[14]ジャレド・ダイアモンド『セックスはなぜ楽しいか』草思社(1999年)p156

[16]グレゴリー・クラーク(2009年)上p116

[17]アンガス・ディートン『大脱出 健康、お金、格差の起源』みすず書房(2014年)p92

[18]ダニエル・E・リーバーマン(2015年)上p154

[19]ジャレド・ダイアモンド(2012年)下p103~105など

[20]マッシモ・リヴィ‐バッチ『人口の世界史』東洋経済(2014年)p41~43

[21]マッシモ・リヴィ‐バッチ(2014年)p45

[22]ダニエル・E・リーバーマン(2015年)下p19

[23]ダニエル・E・リーバーマン(2015年)下p33

[24]アンガス・ディートン(2014年)p92

[25]ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史』日経ビジネス人文庫(2015年)下p45~46

(2016年6月28日 「デマこい!」より転載)