世界で最も孤立した国、北朝鮮で過ごした8日間(画像)

北朝鮮の旅を特別なものにしてくれたのは、地元の人とのつながりだった。
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世界で最も孤立した国にようこそ。

2015年9月、私は北朝鮮を旅した。アメリカの研究者ウィリアム・グリフィス(1843-1928)が『隠者の国・朝鮮』と評した国が、どういうものか見てみたかったのだ。北朝鮮のほとんどは予想していた通りの国だった。つまり、奇妙で嘘くさく、プロパガンダだらけで不安定な国だった。

それでも旅はとても素晴らしく、予想外の驚きに満ちていた。一つだけ確実に言えるのは、北朝鮮は地球上のどの場所とも違うということだ。

帰国して以来、友人から赤の他人まで、多くの人たちが北朝鮮について尋ねてきた。私が想像していたより、人々は強い好奇心を北朝鮮に抱いていた。だから私は旅での経験を書き記して、共有することにした。

北朝鮮に実際にいるのがどういうことなのか、写真や話だけで十分に表現するのは難しい。旅行者は四六時中監視されており、自由はなく、常に緊張を強いられる。しかしこのブログで、世界で最も制限され謎に満ちた国の一つ北朝鮮での暮らしがどういうものか、少しでもお見せできればと思う。

規則

北朝鮮に到着してすぐ、シャトルがまだ空港のパーキングを出ないうちから、政府の監視役がこの国で従うべき規則について説明し始めた。具体的には次のような規則だ。

  1. 常にグループで行動しなければならない。旅全体を通して、ほとんど外を歩くことはなかった。たった4ブロックの移動にもバスを使った。夜間にホテルを出たり、自分で市内を探索したりすることはもってのほかだった。
  2. 軍事拠点や兵士の写真は禁止。北朝鮮では、国民のほぼ40%が兵役に就いている。そのため、この規則に従うのは難しかった。
  3. 建設現場や仕事をしている人の写真は禁止。北朝鮮政府が世界に見せたいのは、全てが新しく完璧な自国の姿だ。作りかけの建物や汗まみれの労働者は彼らの基準を満たしていない。
  4. 指導者の写真を撮る際は、全身を撮影しなければならない。体の一部が切り取られるようなことがあってはいけない。
  5. 持っている印刷物(新聞や雑誌など)に指導者が描かれている場合、彼らの画像にしわが寄ってはならない。またその印刷物をごみ箱に捨てたり、包装紙として使用してもいけない。
  6. 指導者の像を訪れた時は、像の前に一列で並んでお辞儀をしなければならない。その際、手は体の側面に添えなければならず、ポケットに入れたり、後ろで組んだりしてはいけない。

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プロパガンダ

空港から出て最初に目にするのはプロパガンダだ。文字通り至る所にある。交差点、建物、地下鉄の駅、地下鉄の車両、ありとあらゆる場所に指導者の肖像が掲げられている。横断幕や巨大な壁画には、故金日成主席が唱えた北朝鮮の指導理念「チュチェ思想」を誉め称える言葉が書かれている。

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北朝鮮では、屋根に巨大なメガホンをつけて…

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毎朝6時半に、通りからプロパガンダの音楽が鳴り響いてくる。これがモーニングコールとなり目が覚める。

国民自身も、政府の宣伝機関の一部だ。ほぼ全ての人たちが、金日成と金正日の顔のついた赤いピンバッジをつけて、愛国心を表現している。私も一つ手に入れようとしたが、旅行者は持つことを許されていない。ピンバッジを手に入れられるのは、忠実な奴隷のみなのだ。

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仕事場でもプロパガンダから逃れることはできない。我々が訪問した織物工場のような施設には、壁の内側にも外側にもプロパガンダポスターが貼られていた。

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しかし最も恐ろしかったのは、国民学校で見たプロパガンダだ。我々は、平壌の北にある小さな田舎町ピョンソンにある小学校と、少年宮殿と呼ばれる才能のある子供のための学校を訪れた。

戦争や殺戮、死 ―― 壁画に描かれていたのは、心をかき乱すような絵だった。その横には、愛情に満ちた目を子供たちに向ける(子供たちも愛情深い眼差しを向けている)、指導者の肖像画が掲げられている。

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戦争を描いた壁画には、一部が隠されたものもあった。我々が訪問する前に、学校当局が写真を隠したのだろう。壁画の生々しさを考えれば、隠された部分は想像に難くない。私は監視役に、その部分について尋ねたが、彼女は質問をかわし、おそらく壁画の一部を補修しているのだろうと答えた。

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平壌のエリート

平壌で暮らすことは、小説「ハンガー・ゲーム」に登場する都市「キャピトル」で暮らすようなものである。エリートのみがここに住むことを許される。北朝鮮の中でも最もプロパガンダが盛んで、指導者への愛が強い場所だ。そして生活水準が最も高い。

平壌に住んでいるのは、「上位1%」の人たちだ。

ここに住んでいる人たちには他にはない特権がある。

1. 国への忠誠と奉仕の見返りとして高層アパートが無料で与えられる。

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2. ヌテラ、オレオ、ウォッカや、プラスチックの靴まで、何でもそろったお店がある。一部の写真がぼやけているのは、店内の写真撮影が許されなかったためだ。そのため、写真を撮るたのに工夫が必要だった。

商品は完璧に並べられており、品数も豊富だった。豊かさと繁栄を見せようとしているのだ。

最初の写真には、天井から吊るされている何台ものセキュリティカメラが写っている。この小さな食料品店には、アメリカの銀行より多くの監視カメラがあった。

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3. ソビエトの地下鉄に乗ることができる。

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4. スマートフォンが使える。

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5. 週末には遊園地やウォーターパークに行くこともできる。

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我々が平壌で目にした生活は、明らかにごく一部の裕福な暮らしだ。それでも私が予想していたよりずっと良い暮らしだった。

ソビエト風のコンクリートジャングル

平壌は、想像していたより開発が進んでいた。

建物のほとんどは、大きくて特徴のない、まるでレゴブロックのようなソビエト風のコンクリートビルだった。しかしそのスケールは、私の予想を超えていた。

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遠くから眺める限り、街の一部は魅力的だった。しかし少し近づくと美しさは消え去った。近くで見ると、全てはぼろぼろで、街は荒れていた。

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作業が止まったままの建設現場が街中あちこちにあった。平壌は暗い足場と造りかけのビルが点在する街なのだ。

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最も有名な未完の建物は、北朝鮮で最も高い建物、柳京ホテルだろう。1987年に始まった建設は止まったままだ。

北朝鮮のエリートたちは回転するレストランがとても好きだ。高級ホテルには必ず回転レストランがあり、平壌の最高級ホテル、高麗ホテルと羊角島国際ホテルも例外ではない。最上級のおもてなしを提供するために、柳京ホテルには5つの回転レストランが入るように設計されていた! 下の写真に写っている塔の上部にある、円錐の部分だ。  

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DMZ(非武装地帯)

韓国と休戦状態にある北朝鮮では、武力衝突の脅威は身近だ。それが最もわかりやすいのは、南北朝鮮の間にある非武装地帯(DMZ)である。

平壌からDMZのある板門店までは車で3時間。ソウルから板門店までは90分以内で到着するので、平壌はソウルより武力衝突の脅威から距離的には2倍離れていることになる。

板門店までのドライブは興味深かった。ハイウェイは6レーン分の広さがあったが、3時間ほとんど車を見かけなかった。目にしたのはほとんどが自転車か歩行者で、我々が見た唯一の乗り物は、軍のジープか、たまに走る1、2台のバスだけだった。

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DMZに近づくにつれ、軍のチェックポイントが増えていく。チェックポイントの兵士たちは険しい表情をしていた。チェックポイントに近づくたびに、監視役から写真を一切撮らないよう強く念押しされた。

北朝鮮軍は、道の脇に沿って1.5〜3キロ毎に巨大なコンクリートの塔を建てていた。モニュメントのように見えるものもあったが、もっと重要な目的がある。韓国が軍事境界線を破って北上してきた場合、塔の土台を爆破して路上に倒し、韓国の戦車を阻止するのだ。

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DMZに到着すると、空気が電気を帯びたようにピリピリとしていた。「非武装地帯」は、これまでに見た中で最も厳重に軍隊が配置された場所の一つだった。セキュリティレベルは最高水準で、我々は兵士に付き添われて一列になって敷地内を歩いた。

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最高の瞬間

北朝鮮で過ごした一週間で忘れられない出来事が3つあった。全てが思いがけない形での地元の人たちとの交流だった。北朝鮮の旅を特別なものにしてくれたのは、人間同士のつながりだった。

1. 公園で歌を歌った

最初の出来事は、平壌にあるモラン丘公園をハイキングしている時に起こった。モラン丘公園は町の中心に位置し、広さはニューヨークのセントラルパークの四分の一程度だ。大部分が森林でかなり起伏があるが、あちこちに芝生があって地元の人が集まってピクニックをする。

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我々が訪れたのは日曜日で、公園には地元の人がたくさんいた。初めはここで午後を無駄に過ごすことになりそうだったので、少しがっかりしていた。

我々は人とすれ違うたびに笑顔でこんにちはと挨拶したが、ほとんどは無視された。若い子供たちはクスクス笑って走り去った。

ハイキングを始めて15分くらい経った時、30メートルほど先に集まるグループが目に入った。彼らがいた場所は、我々が歩いていた歩道からそれほど近くはなかったが、歌っていたので興味がわいた。男性たち(少し酔っているようだった)は軍服を脱ぎ捨て、タンクトップで踊っていた。

そこで私は踊りながら、彼らに近づいた。彼らは私を無視するのではなく、笑って踊り返してきた。

そう、我々は北朝鮮の人たちとダンス・バトルをしたのだ!

しばらく踊った後、彼らは輪に入るようにと手を振ってきた。信じられない!監視役の方を見ると、彼女はうなずいた。やった!

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我々のグループは急いで丘を下り、木々を通り抜けて彼らに加わった。それからの15分間、我々は新しい友人たちと歌を歌い、踊った。何人かは我々の存在を多少気まずく感じたようで後ろに下がったが、男性たちはとても楽しんでいた。我々は朝鮮語の歌を何曲か歌った。アリランという有名な民謡もあったが、朝鮮語だったので精一杯ごまかしながら歌った。

彼らは私たちにも何か歌うよう、身振りで伝えてきた。そこで、最初に浮かんだ曲を歌い始めた。ディズニーの美女と野獣の曲、「ひとりぼっちの晩餐会」だ。敵対する国の架け橋に、ディズニーはぴったりだろう。

言葉が一つもわからなくても、彼らは音楽に合わせて楽しそうに踊っていた。


本当に楽しく、美しく、人間らしいひとときだった。もちろん、これが演出だったという可能性もある。北朝鮮では、正しいと確信できることは何もないのだから。しかしあの日公園には大勢の人たちがいた。その人たちの中から、ダンスバトルをするグループを選ぶのは、簡単ではない。そう考えると、この出来事は演出ではなかったと私は思う。

間違いなく最高の思い出の一つだ。

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2. マスダンス

私の旅の二番目の出来事は、国民の祝日(2015年9月9日)に起きた。この日は国中でマスダンスが行われる。マスダンスとは、数百人、場合によっては数千人の人たちが盛装をして公共の広場に集まり、一斉にダンスをするイベントだ。

午後、我々は平壌で最大のマスダンスを見物に出かけた。千人以上の地元民が集まる光景は、実に見事だった。色とりどりの民族衣装で着た人たちが、広場を虹色に変えていた。

他の多くの場合と同様、マスダンスは何度もリハーサルされていた。曲と曲の間、彼らは碁盤の目の上に並んだ兵士のように整列し、静かに前を向いて、次の曲が始まるのを待っていた。少しゾッとする光景だった。

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ダンス中に笑っている人はおらず、中には嫌々ながら踊っているような人も見受けられた。

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それでも、マスダンスは一見の価値に値する、貴重な体験だった。希望者は参加してもいいと言われたとき、このイベントはますます面白いものになった。旅行者の多くは遠慮したが、我々のグループは喜んで飛び入り参加した。

親しみやすさを感じる女性に割り込んでいいかどうか尋ねると、彼女は恥ずかしそうに了承してくれた。ダンスは比較的単純で、私はパートナーの足を踏まないようにしながら溶け込もうと努力した。

気が付くと、ダンスの渦に巻き込まれていた。

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見知らぬ北朝鮮人とのダンスはスリル満点(そして予想していないこと)で、とても楽しい体験ができた。マスダンスを踊るなんて、北朝鮮への旅を決めたときは全く予想していなかった。

3. 自由な散歩

三番目の出来事は、同じ9月9日のもっと早い時間に起こった。前述した通り、我々は外を歩くことをほとんど許されていなかった。おそらく、地元民と違法に接触するのを避けるためだろう。

しかし、数日間過ごして監視役と信頼関係を築くと、彼らは短い時間散歩することを許してくれた。それはたった10ブロックほどの散歩で、我々はグループで行動しなければならなかったが、その10ブロックを歩く間、空気はよりおいしく、太陽はそれまでになかったほど明るく感じた。

それまでの二日間、我々はホテルとシャトルバスに閉じ込められ、捕虜のような状態にあったのだ。それが15分間、(ほとんど)普通の人のように通りを散策できたのである。

私はわかった。自由というのは、失うまでその本当の意味を理解することはできないのだ。

散歩の間、私は建物や店を覗いて、朝鮮民主主義人民共和国の日常生活に溶け込んだ。

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希望

北朝鮮で出会った人のうち、10人に9人は我々を避けた。しかし残りの10%とコミュニケーションをとることができ、それはとても楽しかった。時には笑顔が返され、ラッキーな場合は、手を振ってくれた。そのほとんどが子供や学生だった。

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子供や若者たちが、大人より友好的で好奇心が強いというのは、驚きではないだろう。彼らはまだ、完全にプロパガンダに洗脳されていないのかもしれないし、人生の苦難を味わっていないのかもしれない。

理由はともかく、北朝鮮の若い世代は私に希望を与えた。いつの日か、北朝鮮に変化が訪れるかもしれないという希望を。そのとき、北朝鮮が、そして世界が良くなるだろう。

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このブログはMediumに掲載したエッセイからの抜粋。元記事には更に詳しい情報が書かれている。また、InstagramFacebookで更に多くの写真を紹介している。動画はYouTubeチャンネルで見ることができる。

この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。

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