真珠湾攻撃から72年 かつての屈辱の地は融和へ

12月7日の夜明け前。「日本人として、やっぱり行きにくいな」と一抹の不安を胸に、ホノルルの真珠湾アリゾナ記念館に向かった。真珠湾攻撃72周年の記念式典に出席するためだ。
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12月7日の夜明け前。「日本人として、やっぱり行きにくいな」と一抹の不安を胸に、ホノルルの真珠湾アリゾナ記念館に向かった。真珠湾攻撃72周年の記念式典(日本時間では12月8日)に出席するためだ。

20年以上前に初めて訪れて以来、4月からハワイ大学で真珠湾攻撃と原爆投下の政治学的関連性を研究していることから、もう何度ここに足を運んだか覚えていない。日本軍が先制攻撃を仕掛けた真珠湾攻撃の地に足を踏み入れるときの「後ろめたさ」「罪悪感」はとっくに消え去っているが、初めて出席する記念式典の日は別だった。おそらく、8月6日の広島原爆投下の日に、アメリカ人が平和式典に参加する思いに近いのかもしれない。

会場の外まで制服を着た海軍兵士であふれかえっていたものの、真珠湾攻撃を戦った退役軍人50人と家族、関係者、来賓、一般訪問者など合わせて千人程度の式典だ。軍服姿の兵士をのぞけば物々しさはなく、広島の原爆の日のように会場周辺の「左右団体」によるアジ演説もなかった。

「後ろめたさ」を拭い去ってくれたのは、会場で渡された式典プログラムを開いた時だ。

「平和と融和のシンボル」(Symbol of Peace and Reconciliation)として、第2次世界大戦末期の静岡空襲の際、墜落したB29のアメリカ軍兵士を丁重に埋葬した僧侶の伊藤福松さんと、黒こげになったアルミ製の「水筒」の話がつづられている。

式次には「平和の祈り」(Prayer for Peace)として、アメリカ人のキリスト教司祭・牧師ではなく、日本人の仏教僧侶、世界連邦日本仏教徒協議会の叡南覚範師の名前が記されていた。また主賓格の自衛隊の元幹部(さすがに、現役自衛隊員は政治的な理由から招かれていない)数名をはじめ、(ハワイでは稀有な)スーツ姿の日本領事館関係者らしき方々、袈裟姿の僧侶、紋付羽織袴の琵琶奏者まで様々な日本人が招待されていた。ちなみに私は招待客ではなく、一般客である。

かつては、「日本語の案内表示を撤去しろ」、「売店で日本製のものを売るとはけしからん」、さらには「日本人を立ち入り禁止にしろ」まで、「日本」の存在に対してありとあらゆる抗議がアリゾナ記念館に寄せられた。日系人の記念館職員に対してさえ「なぜ、日本人がここで働いているのだ」と。真珠湾は「屈辱」と「憎悪」の象徴だったのだ。

しかし、ハフィントンポストの「真珠湾に展示された禎子の折り鶴」に書いた通り、こうした反日的なことは(まれにはあるのだろうが)ほとんど影を潜めている。そして、今年の9月には米国による原爆投下の犠牲者である佐々木禎子さんの「折り鶴」が、平和と融和の象徴としてアリゾナ記念館資料館に展示されるに至っている。

式典の演説の中でも、「敵軍の奇襲攻撃で」「日本帝国軍による」というくだりは何度か聞くことがあったが、「日本による」、そして「Sneak attack」(ずるい攻撃)は、私の記憶では一度も語られることはなかった。

「軍の式典」であるので、第2次世界大戦中のプロペラ機の上空飛行、ミサイル艦USS Halseyの閲覧航行があり、さすがにHarry Harris太平洋艦隊司令官の演説は「われわれは真珠湾を忘れない、油断なく警戒し、今晩にでも戦う準備はできており、そして、勝利をつかむ」と勇ましいものだった。しかし、軍人を含めて他の6人による演説では、真珠湾で戦った兵士の賞賛、犠牲者への哀悼の意、そして「かつての敵同士でも、今は盟友である」という融和のメッセージが繰り返された。

日本政府は真珠湾攻撃について謝罪はしていない。アメリカ政府も原爆投下に対して謝罪していない。政府間の謝罪はないままであるが、国立公園局と海軍によって運営されている、つまりアメリカ政府予算運営のアリゾナ記念館では、「融和」がすすんでいる。

真珠湾にみられる融和は、日本と隣国の関係ではあまりみられない。むしろ、敵対の度合いが高まっているようだ。理由はいくらでもあるだろう。ただ、批判も承知でいうと、70年も前のことを融和に昇華できないでどうするのだろう。