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なぜ32歳の童貞のおっさんが今さら風俗に行く気になったのか。その入り口は、なぜ「非モテが正義」になってしまったか、というところにある。
かつてはストレートに「非モテはダサい」というところから始められた非モテ系が、今偉そうにネットの正義として君臨してしまったのには、承認を巡る構造的な問題がある。
簡単にいえば、あるラインを超えるとモテるよりもモテない方が承認欲求を満たしてくれるようになるのだ。
思春期の始まり、恋人がいるというのは間違いなく特別なステータスとして機能してくれる。要するに若いうちに恋人がいる、あるいは童貞を捨てるというのは、特権階級の証明なのだ。
だけど、年齢とともに恋人の特権性は失われていく。セックスは日常になっていき、経験がない方がマイノリティになっていく。かつてはこの過程で「マイノリティになったらまずい」という社会的圧力が機能していた。
だけど、承認欲求が先鋭化した社会では、これが逆転してしまった。たとえば、12歳で恋人ができた人は、それだけで特権階級に入り、承認欲求を満たしてもらえる。だけど、20歳で恋人ができた人は、むしろ社会承認という点では果実が非常に小さい。つまり、わざわざ「やっと彼女ができた人」になっただけなのだ。
本来、恋人というのは究極の承認のひとつだったし、今でもそうである(と少なくとも多くの人が信じている)。けれど、インターネットという場所における承認は、強度を問題としていない。はてブを集める、ふぁぼを集める、RTを稼ぐ......どれもが、ひとつひとつの承認の強度ではなく、承認の数をめぐるゲームだ。
その原理からすると、年を取れば取るほど恋人をつくるのは「割の悪い承認収集装置」になってしまう。たったひとりの恋人という承認は得られるけれど、不特定多数からの承認はほとんど望めない。普通なのだ。
そこで出てくるのが非モテだ。
非モテが「面白く」なった00年代のインターネットでは、なまじ恋人がいるよりも、徹底的に恋人がいない方がおいしくなった。不特定多数の承認をかき集めやすくなったのだ。
だから、一定のボーダーラインを超えたとき、つまり、恋人がいる方がマジョリティになったとき、インターネットではリア充と非モテの株価が逆転したのだ。結果、リア充はダサくなり、非モテはかっこよくなった。
非モテブームの第一世代を生きてきた僕にとって、それは許しがたい気持ち悪さだった。「ダサい」ことこそ、非モテのアイデンティティであり、面白さだった。だから、「ダサくありたい」というこじれた美意識が自分のなかにあった。今の非モテには絶対に乗ってやるもんか、という卑小な自意識なりの美意識があった。
けど、この構造に気づいたとき、結局自分もその承認ゲームの一員に過ぎないことに気づいてしまったのだ。ダサさをテコに、承認欲求を満たそうとした非モテ第一世代も、それが裏返ったあと、勝ち馬に乗る第二世代も、承認ゲームのなかで本質的な部分で変わりはない。
というより、今の自分はたぶん第二世代よりもずっと惨めだった。せめて非モテが正しくダサかった時代が終わったとき、潔く非モテなんてところを離れていればよかった。同じ承認欲求のゆがんだ発露ではあっても、そういう自分はまだ許せた。けど、今の僕は、ダサくて面白かった頃の自分を伝家の宝刀のように大事にして、今の非モテに説教をする、「終わったおっさん」だった。過去の栄光にすがって都合よく承認欲求を満たそうとするだけで、ちってもダサくすらなれていなかったのだ。
なら、本当に今一番ダサいところに乗ろうじゃない。今さら風俗に行って、それがまるでたいそうな出来事みたいな顔でもしようじゃない。それが、三十路のおっさんを風俗に行かせたものだった。