腹が立って,情けない思いに駆られた。
今朝の読売新聞の記事だ。
見出しは「住居全壊世帯に最大300万円支援金...政府決定」とある。
政府が『生活・生業再建支援パッケージ第1弾』と銘打って支援策を打ち出したのである。
しかし,何か目新しい施策が盛り込まれたわけではない。
とりわけ,見出しになった「300万円」は,ずーっとずーっと前から被災者生活再建支援法に基づき支給されてきた。
今回も支給は決まっている。
政府が胸を張っていうような話ではない。当たり前のことだ。
ほかにもグループ補助金や,ガレキ土砂処理,災害援護資金貸付など,被災者支援の仕組みがずらずら並んでいるが,いずれも既視感のある政策ばかり。
なぜ当たり前のことを,これほどありがたがって,大きな見出しを付けて,喜ばなければならないのか。
私は,不条理に由来する義憤を抑えることができない。
私が腹立たしく思った相手は3者ある。
まずは政府である。
この,当たり前のことを並べて「パッケージ」と名付けて,いかにも何かすごいことをやっているように見せる。
この「パフォーマンス」の手法は,以前にも行われた。
福島原発事故の被災者たちを支援するために立法された「子ども被災者支援法」は,今や石棺で凍結されたような状態に置かれているが,
そのきっかけになったのは,政府が2013年3月15日に「被災者支援パッケージ」と名付けて,「子ども被災者支援法よりも幅広い施策」とアピールした行為だ。
パッケージの中身は,およそ被災者支援といえるものではなく,むしろ支援法を骨抜きにする施策ばかりだった。
子ども被災者支援法に期待を寄せる炎が消えかかった瞬間だった。
この誤魔化しに怒りを覚えた感情が,いま,フラッシュバックしてしまう。
つぎに報道である。
どうして,法律に書いてある当たり前のことを大見出しで喧伝するのか。
もし,被災者生活再建支援法の話をするならば,たとえば「半壊以下に適用がない」「同じ豪雨の被害なのに全員に適用されない(同一災害同一支援の原則違反)」「住家の被害しか対象にならない」といった,これまでもずっと指摘されてきた課題が,今回もまた見過ごされつつある状況にこそ問題意識を喚起すべきだろう。
不十分な施策が不十分な状態のまま適用されるとしたら,それは愚策にほかならない。
愚策の何たるかを知らずに報じているならば,あまりに不勉強だし,もし知って報じているならば,制度の発展の芽を摘む大罪だ。
そして自分自身である。
これまで支援制度の普及に努めてきたつもりだったが,その実が上がっていないからこそ,こんな政府の見え透いたパフォーマンスや,低レベルの報道を許してしまっているのだろう。
あるいは,一市民として,災害が起きても喉元を過ぎれば,宿題を棚上げにしてしまい,放置しているからこそ,愚の繰り返しを招いてしまっているのだろう。
支援制度の普及への努力は独り善がりだったのではないか,そんな無力感を感じる。
そして,自分自身が,こうした無力感と怒りを繰り返しているばかりではないか?と自覚する。
寺田寅彦は「天災は忘れたころにやってくる」と語ったとされる。その関東大震災からまだ100年も経っていない。
最近は「災害は忘れる前にやってくる」と言われることが多い。しかし,本当に「忘れる前」なのか?
災害は,容赦なく,次々に襲ってくる。
地震,豪雨,竜巻,酷暑...と,次々に襲ってくるキャラが変わるゲームのようだが,相対する私たちは本当に「忘れず」に,ランクアップをしているのか?
私の実感は「災害が来ると前のを忘れちゃう」という感じだ。
パソコンでデータの上書き消去してしまうように,新たな災害が来ると以前の災害の教訓を忘れ去っていないか。
ゲームなら,リセットするのもよいだろう。
でも,一人ひとりが本気で命と生活を守るなら,災害のたびにリセットボタンを押すような愚かな行動はもうやめよう。
大阪府北部地震を忘れていないか?熊本地震は?鳥取中部地震は?鬼怒川決壊は?
東日本大震災だって全然終わっていない。阪神大震災の被災地では,借上げ復興住宅問題で西宮市と神戸市の非道・愚行が続いている。
天災は繰り返されても,私たちは愚行を繰り返してはならない。
民主主義の社会では,私たち一人ひとりが,災害を忘れず,そのたびに制度を進化させていく責任があるのだ。