連合は「誰もが参加可能な共生社会の実現」に向けて東京2020パラリンピック開催を全力で応援中。
パラスポーツへの理解と共感を広げる「ものがたり」を連載でお届けする。
日本の障がい者スポーツの原点はここ!大分国際車いすマラソン
第38回を迎える「大分国際車いすマラソン」が、11月18日(日)に開催される。世界最大・最高レベルの大会であると同時に、2000人を超えるボランティアの参加や沿道の観客の多さでも知られる。連合大分・大分地協も清掃と警備のボランティアを毎年担っていると聞き、連合大分に全面的に取材協力いただいた。大会の提唱者である中村裕氏を父に持ち、自身もその運営に深く関わってきた大分中村病院の中村太郎理事長は「そこには、1964年の東京パラリンピック、1975年のフェスピック(現在のアジアパラ競技大会)から続く、共生社会実現への願いが受け継がれている」と語る。
中村太郎 (なかむら・たろう)
医師・社会医療法人恵愛会 大分中村病院理事長・院長
●Profile
1960年大分県別府市生まれ。フェスピックやシドニーパラリンピック、アテネパラリンピックではチームドクターを務める。大分大学医学部、大分県立看護科学大学の臨床教授を兼任。父は、「障がい者スポーツの父」と称され、障がい者自立のための施設「太陽の家」を創設した中村裕博士。
編著書に『パラリンピックへの招待—挑戦するアスリートたち』(岩波書店)、『車いすマラソン―大分から世界へのメッセージ』(医療文化社)など。
◆社会福祉法人「太陽の家」
障がい者は仕事を持ち自立することが最も必要であるという信念から、1965年、中村裕博士が創設。障がい者が普通に仕事をして生活する地域社会をつくり、社会の偏見や差別を克服してきた。企業と資本金を出し合って設立した共同出資会社(特例子会社)が8社あり、多くの障がい者が働いている。
─大分国際車いすマラソンは、1981年、世界で初めて車いすだけの国際マラソン大会として開催されました。その経緯とは?
私の父が提唱者と言われていますが、当時の平松守彦大分県知事から、「1981年の『国際障害者年』にふさわしい企画はないか」と相談されたことがきっかけです。
最初は、「別府大分毎日マラソン」に障がい者の参加を要請したそうです。海外では、すでにボストンやホノルルなど、障がい者が一緒にコースを走るマラソン大会がありましたから...。でも、断られ、やむなく車いすだけの国際大会を提案しました。最初は反対もあったようですが、今では世界に誇れる国際大会に成長しています。
迫力ある車いすマラソンのレース
地域の人々に支えられて
─大会の特徴は?
車いすマラソンは、「レーサー」と呼ばれる競技用車いすで42.195kmを疾走します。トップ選手のタイムは1時間20分台。かなりのスピードで公道を走るので、海外では、交通の妨げにならないよう早朝スタートの大会が多い。シドニーやアテネのパラリンピックでも、ひと気のない郊外のコースをひたすら走るという感じでした。
でも、大分国際は、市中心部の県庁前から午前10時のスタート。だから、ボランティアや観客の数がものすごく多くて、選手たちは熱い声援を受けながら駆け抜けていく。日本の障がい者スポーツの中でも、これだけの規模のボランティアや観客が参加する大会は他にありません。通訳や国際交流のボランティア団体にとっては、おおいに活躍できる場になっています。「太陽の家」と連携している企業は、協賛企業に名を連ね、本社からもボランティアを派遣しています。連合大分も、長年、清掃や警備のボランティアを担ってくれています。こうした地域のみなさんの支えが、最大の特徴です。
もう一つの特徴は、障がい者スポーツの最先端を行く大会であることです。世界のトップ選手は、「福祉やリハビリテーションの一環ではなく、純粋な競技スポーツとして認められたい」という思いを強くもっています。この流れを受け、大分国際車いすマラソンは、いち早く国際パラリンピック委員会の公認大会になり、前日のメディカルチェックを廃止して、ドーピング検査や国際資格者によるクラス分けを行っています。世界記録や日本記録、各クラスの優勝者には高額の賞金も支給されます。一方で、車いすマラソンのすそ野を広げようと、初心者には「レーサー」を貸し出す試みも始めています。
─先生ご自身や大分中村病院としての関わりは?
私は1986年に医師国家試験に合格して大分に帰郷したんですが、以来、大分国際車いすマラソンの医療班を組織し、毎年クラス分けや救護に携わっています。病院からは、大会当日に医師と看護師を派遣しています。
障がい者も納税者になれる
─お父さまの遺志を継がれて...。
そんな大それた決意ではなくて、身近に障がい者スポーツがある環境に育った私には、ごく自然なことだったんです。
1960年、父はイギリスのストーク・マンデビル病院に留学し、スポーツによるリハビリテーションの効果を目の当たりにして、日本でも障がい者スポーツに取り組もうと決意して帰国しました。私は、その年の9月に生まれました。父は、世間の冷たい目にもめげず、1964年の東京パラリンピック開催を実現しますが、そこで欧米の選手の姿に衝撃を受けます。日本の選手は病院や療養所で暮らす「患者」なのに、欧米の選手は、仕事や家庭を持ち、選挙村にタクシーを呼んで銀座に買い物に出かける。父は、障がい者の自立・社会復帰には働く場が不可欠だと考え、1965年に「保護より機会を」という理念を掲げて社会福祉法人「太陽の家」を設立しました。当初は苦労の連続だったようですが、障がい者も働ける場があれば、経済的に自立し納税者になれるという理念に賛同してくれる企業が出てきて、運営を軌道に乗せることができました。
父はさらにアジアの途上国にも目を向け、1974年にフェスピック連盟(FESPIC/極東・南太平洋身体障害者スポーツ連盟)を設立。翌年、地方都市である大分市・別府市で、第1回大会を開催しました。「椰子の木の下でも、どんな貧しい国でも開催できる大会」にしたいという思いから、大都市ではなく地方都市で開催したそうです。また、脊髄損傷だけでなく「あらゆる障がい者の参加する」初めての国際大会にもなりました。こうした積み重ねの延長で、大分国際車いすマラソンが開催されることになったのだと思います。
─お父さまの背中を見て育ったんですね。
物心ついた頃には、いつも家に障がいのある人が出入りしていたし、「太陽の家」にもよく遊びに行きました。フェスピックを大分で開催した時は、病院が海外選手の宿舎になって、母はその世話にかかりきりでした。おかげで、私たち兄弟は、発売されたばかりのインスタントラーメンが食べられてうれしかった記憶があります。
中学に上がると、父はとにかく医者になれと言い始めました。私は、本が好きで理系科目は苦手だったんですが、医学部以外の受験は認めないと。部活も「そんな暇があったら勉強しろ」と退部させられました。なんとか医学部に進学して自宅を離れていた時に父は亡くなりました。だから、障がい者スポーツについて直接話をしたことはないんです。ただ、障がいのある人が身近にいる環境に育ち、父の姿を見て障がい者をサポートするのが医者の仕事だと思い込んでしまったんですね。自分は相当変わった家庭に育ったと気付いたのは、つい最近のことです。でも、父は、すべてを犠牲にして障がい者スポーツに人生を捧げたわけではありません。1960年代、70年代に頻繁に海外のいろいろな国に行き、自動車や最先端の電気製品も大好きで、趣味を楽しんでいました。きっと障がい者スポーツも同じように好きだったんだと思います。けっして清貧で品行方正という人でもなかったんです。
「働くこと」を通じた相互の理解を
─パラスポーツの魅力を伝えるには?
東京2020大会に向けてメディアの報道が増え、パラスポーツの認知度が高まり、物理的なバリアフリーは進んでいますが、心理的バリアは、いまだ根強く存在しています。
日本の人口の約5%の人が障がいを持つと言われますが、そのうち競技スポーツをしている人は1%に満たない。観戦や応援を通じてその世界を知ることも大事ですが、もっと日常の場で、障がいを持つ人、持たない人が接することが必要です。中でも「働くこと」を通じて、互いに知り合うことが、いちばんナチュラルではないでしょうか。連合は「すべての働く人たちのために」を掲げていますね。障がいを持つ人も同じ働く仲間であり、健常者も障がい者も一緒に働く職場があたりまえになれば、パラスポーツももっと身近になる。
今、「太陽の家」には、自転車とパラ卓球の2人の選手がいます。同じ職場の仲間が頑張っていると思うと、オリンピック・パラリンピックへの関心も高まるし、応援にも熱が入る。そういう形で、ともに働き、ともに生きる社会をベースに、パラスポーツへの関心や認知度を高めていければと思っています。
─2020大会に向けて、労働組合に期待することは?
最近、障害者雇用率をめぐる不正が明るみになりましたが、「太陽の家」の共同出資会社(特例子会社)は、障がい者と健常者がほぼ半々の比率で働いています。会社の目標達成に向けて障がいのある社員もない社員も一緒に働くことで、さまざまな相乗効果が生まれる。私は、それをずっと見てきました。また、「太陽の家」がある別府市は、人口12万人のうち約9000人が障がい者で、その存在は地域の雇用や消費拡大にも貢献していて、商店や飲食店などのバリアフリー化も進んでいます。職場でも地域でも、障がい者を分ける必要なんてないんです。
1964年の東京パラリンピックは、日本で障がい者スポーツが一歩を踏み出すスタートになりましたが、2020大会は、多様性を認め合う共生社会へと向かうスタートになってほしいと願っています。そして、多様な人たちが活躍できるダイバーシティを実現していく上で、労働組合の役割は大きい。「働くこと」は、社会参加として一番身近なことだからです。「働くこと」を通じて、共生社会を実現していくために、労働組合が力を発揮されることを期待しています。
連合大分のボランティア活動
ボランティアで大会を支えるのは「あたりまえ」 組合員と家族750人でコースを清掃
連合大分・大分地協では、毎年、清掃と警備のボランティアを担っているという。その活動内容や位置づけについて伊藤裕司連合大分地協事務局長に聞いた。
伊藤裕司
連合大分・大分地協 事務局長
─大分国際車いすマラソンへのボランティア参加はいつから?
1994年から清掃、1995年から警備のボランティアを毎年続けています。
清掃は、全コースを9ブロックに分け、大会当日の朝8時から路側帯と中央分離帯を中心に1時間ほど行います。今年は、家族を含め750人の参加を予定しています。当日の作業なので、終了後は観戦・応援する人が多いですね。
警備ボランティアは、コース内のカーブなど転倒しやすい場所で矢印プラカードを掲示したり、往路と復路の選手が同時に走行する時間帯に接触がないよう誘導します。事前の研修会にも参加する必要があるので、構成組織から合計20人を募ってエントリーしています。連合のおそろいのブルージャンパーを着て配置についているので、ぜひ探してみてください。
連合のジャンパーを着て誘導する警備ボランティア
─参加の経緯は?
もう20年以上前のことなので、当時の詳しい経緯を知る人がいないんですが、県からの要請を受けて始まったと聞いています。
当初は、地区協のボランティア活動という位置づけで、清掃の範囲も東大分地区協(当時)管内だけでした。その後、女性・青年委員会の活動強化の取り組みや、クリーンキャンペーン(環境への取り組み)の一環という位置づけも加わり、範囲を拡大して定着しました。
大分国際車いすマラソンは地域を挙げての大事なイベントであり、今では組合員や家族のみなさんが進んで参加してくれます。「なぜ、参加するのか」なんて考える必要がないくらい、地域のみんなでつくりあげる大会として定着しているんです。
─組合員の反応は?
大会が近づくと、企業も自社の周辺を清掃するので、ブロックによっては、当日ゴミがほとんどないこともあったんです。それで、この作業は本当に必要なのかという声も出たんですが、1本裏の通りなど少し範囲を広げてみると、清掃のしがいがあるところがけっこうありました。それで、コースというより街をきれいにする気持ちで継続しようということになったんです。750人という規模で続けていますが、お子さん連れでも参加できるので、組合員にはとても人気があります。
家族も多数参加する清掃ボランティア
─続けてきて良かったと...。
大会前になると、市内に車いすの方が増え、ポスターや交通規制の掲示がされるようになり、大分市民は今年も車いすマラソンの季節がきたと感じるんです。毎年開催されることがあたりまえになっていますが、地域を挙げてのイベントに参加する機会があって、世界のパラアスリートを身近に感じる機会があるということは、とても貴重であり、きっと私たちの中に何かを残してくれていると思います。
連合の強みを生かしたボランティアをこれからも続けていきたいと思います。
取材に協力してくれた連合大分のみなさん
※この記事は連合が企画・編集する「月刊連合11月号」の記事をWEB用に再編集したものです。