「領土問題は戦争で解決できるという先例になりかねない」 ナゴルノ・カラバフ紛争に専門家が警鐘

コーカサス情勢に詳しい慶應義塾大学の廣瀬陽子教授は「未承認国家は平和な状態ではない」と話しました。
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慶應義塾大学・総合政策学部の廣瀬陽子教授
撮影:安藤健二

ナゴルノ・カラバフ紛争が11月10日、ロシアの仲介で完全停戦した

アゼルバイジャンとアルメニアの旧ソ連を構成した2カ国が、ナゴルノ・カラバフ地域の支配圏をめぐって9月27日から44日間にわたって武力衝突。ロシアのプーチン大統領によると「5000人近い」死者が出たという。アゼルバイジャンは自爆型ドローンなどの新型兵器で猛攻。占領地の多くを失ったアルメニア側の「事実上の敗北」だった。

今回の紛争をどう見るべきか。コーカサス情勢に詳しい慶應義塾大学・総合政策学部の廣瀬陽子教授にインタビューした。今回の紛争の結果、アルメニア側が実効支配していた領土をアゼルバイジャンが奪い返したことについて、「領土問題は戦争で解決できるという先例になりかねない」と警鐘を鳴らした。

 

■ナゴルノ・カラバフとは何か?

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赤い部分が2020年の軍事衝突前まで「ナゴルノ・カラバフ共和国」が実効支配していた地域。
scaliger via Getty Images

係争地「ナゴルノ・カラバフ」はアゼルバイジャン領だが、同国では少数派のアルメニア人が多く住む自治州だった。旧ソ連崩壊直後の1992年1月、アルメニア人勢力は「ナゴルノ・カラバフ共和国」の独立を宣言。隣国アルメニアの協力でアゼルバイジャン軍を打ち破り、1994年5月に停戦した。

「共和国」は国際的な承認を得られないまま、本来のナゴルノ・カラバフ自治州以外の部分も含めて、アゼルバイジャン領の約16%を実効支配してきた。アゼルバイジャン政府は「共和国」の存在を認めず、自国領をアルメニアが軍事占領していると批判し続けてきた。その不満が、26年ぶりの大規模な武力衝突につながったとみられる。

今回のアゼルバイジャン軍の侵攻の結果、「共和国」は支配地域の多くを失ったが、「首都」ステパナケルトを中心とした地域は残された。ウォールストリートジャーナルが公式Twitterで停戦合意に基づく地図を掲載。残された「共和国」の支配地域を青色で示している。

■2020年秋に紛争が再燃した6つの理由とは? 

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アルメニアのパシニャン首相
ASSOCIATED PRESS

9月から始まった武力衝突はお互いに「相手が攻めてきた」と両国が非難しあっており、真相は不明だ。状況からみて領地を奪還するためにアゼルバイジャン側から攻撃をしかけたとする見方が多い。

アゼルバイジャン側にとって、2020年秋に紛争を再開するべき理由があったのだろうか。廣瀬さんに聞くと、以下の「6つの理由」が考えられるという。箇条書きにしてまとめると、次のようになる。

 

01.新型コロナで国内の情勢が不安定

国民の不満が高まりやすいので、不満を外に振り向けるのが政治的な安定には有効。

 

02.ベラルーシの抗議デモ

アゼルバイジャンとよく似た権威主義体制の国なので刺激を受けたらまずい。

 

03.国際情勢の不安定化

世界中が新型コロナへの対策に追われ、アメリカは大統領選に追われている。

 

04.ロシアの態度

ベラルーシが抗議デモで政権が不安定になっていても確たる態度を取らず、旧ソ連圏全体に対する求心力が減ってきた。アゼルバイジャンは「今だったらロシアから介入されない」と考えた。

 

05.後押ししたと見られるトルコの存在

7月末に両国は大規模な合同軍事演習をしたほか、トルコのエルドアン大統領も9月に国連で「アルメニアはカラバフから出ていけ」というような演説をした。

 

06.アルメニアのパシニャン首相への苛立ち

2018年に就任したパシニャン首相はアルメニアのリーダーとしては20年ぶりに、ナゴルノ・カラバフ出身者でなかった。アゼルバイジャンに対して融和的な態度になることを期待していたが、実際にはすごい強硬で、アゼルバイジャンを挑発する発言を繰り返していた。

■ロシアはなぜ積極的に介入しなかったのか?

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ナゴルノ・カラバフ地域と見られる地図が写し出されたテレビと、ロシアのプーチン大統領
Sputnik Photo Agency / Reuters

 ナゴルノ・カラバフ紛争をめぐっては、90年代の衝突と今回ではロシアの立ち位置が変化したように見える。90年代はアルメニアを積極的に支援。廣瀬さんは「ロシアがアルメニアを支援したことが大きな原因となってアゼルバイジャンは負けた」と指摘する。

 

「90年代の紛争の時期に2代目大統領に就任したアゼルバイジャンのエルチベイは、徹底的な反ロシアの姿勢を貫き、それがロシアの反発を引き起こして、ロシアのアルメニア支援を決定的にしたという経緯がありました」

 

しかし、今回の紛争に関してはロシアが積極的に介入した形跡はみられない。実は近年、アゼルバイジャンとロシアの関係は大きく改善されてきているという。廣瀬さんはその要因の一つとして「中国の台頭」を挙げた。

 

「ロシアとしても、アゼルバイジャンと友好関係を維持しておかないと中国の台頭に耐えられないという事情もあるんです。中国は、一帯一路で中央アジアを含めてユーラシアを席巻していますが、それに対抗するために、ロシアはアゼルバイジャン~イランを経由してインドに繋げる『南北輸送回廊』で対抗しようとしています。ロシアにとってもアゼルバイジャンはすごく重要で、敵に回せない。アゼルバイジャンも今だったらロシアが武力介入しないという自信があったんでしょう」

 

このようにロシアはアゼルバイジャンと関係を回復した。一方で、同盟国であるアルメニアとの関係は険悪になっているという。

 

「両国は集団安全保障条約(CSTO)を結んでいるので、今回の紛争でロシアが参戦してもいいくらいでしたが、ロシアはかたくなに『アルメニア領で戦闘にならない限りは関与しない』と明言していました。ロシアはパシニャン首相を『いつかジョージアみたいに親欧米になるんじゃないか?』と疑いの目で見ていたからです。パシニャン首相になってから、逆にアゼルバイジャンとロシアの関係が深まっていました」

 

■アゼルバイジャンにとって「戦争が完全に終わらない」方が都合がいい? 

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「シュシャ」を奪還したと演説をするアゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領(アゼルバイジャン政府の提供写真)
ASSOCIATED PRESS

11月10日の完全停戦の結果、古都シュシャを含む「ナゴルノ・カラバフ共和国」の実効支配地域の多くをアゼルバイジャンが奪還することになった。廣瀬さんは、アルメニア側にとって「間違いなく事実上の敗北」と指摘。その一方で、アゼルバイジャンとロシアにとっては望ましい結果になったという。

「アゼルバイジャンにとっては、全占拠地の奪還は成らなかったとはいえ、おそらく目標の多くを達成して、非常にいい形で終わったのだと思います。アルメニアは苦々しい気持ちしかないとは思いますが……。ロシアとしても望ましい結論でした。というのはナゴルノ・カラバフにロシアの平和維持部隊を置いて、アゼルバイジャンとアルメニア両国に睨みを効かせることができるようになったからです」

古都「シュシャ」をアゼルバイジャン軍が奪還したとイルハム・アリエフ大統領は11月9日に発表していた。完全停戦の合意は、この翌日のことだった。要衝を奪われたことで、アルメニアは戦争継続が難しくなったと廣瀬さんは見ている。

しかし、アゼルバイジャンがナゴルノ・カラバフ全域を攻め落とすのではなく、アゼルバイジャン人の「心のふるさと」とされるシュシャを落とした段階で、矛を収めたのはなぜだろうか。廣瀬さんは「完全解決しない方が、アゼルバイジャンにとっても都合がいい」と指摘する。

「確たる証拠はありませんが、今回の紛争再燃でのアゼルバイジャン首脳陣の目的は、シュシャという『シンボリックなところを奪還する』ことであり、『ナゴルノ・カラバフ問題の全面解決』は目的ではなかったと、私は推測しています。アゼルバイジャンの権威主義体制は国民を抑圧する側面があるため、不満がたまりやすい。同じく権威主義のベラルーシでは最近、国民の不満が高まって抗議行動が起きており、アゼルバイジャンも他人事ではありません。でも、国民の不満をガス抜きできると政府への不満は起きない。常に国民の不満を振り向ける対象があると、権威主義は維持しやすいんです。そういった意味では『アルメニアとの戦争状態』というのはアゼルバイジャン政府にとって都合がいいんです」

■日本で関心が低い理由は?

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1990年代のナゴルノ・カラバフ紛争。アルメニア側の狙撃兵がアゼルバイジャン軍を狙っている。(1993年4月にハドルトで撮影)
ALEXANDER NEMENOV via Getty Images

近代国家同士の大規模な領土紛争にも関わらず、国内メディアでは大きく取り上げられることが少なかった。

ちょうどアメリカ大統領選の時期と重なったこともあるが、どうしてだろうか。廣瀬さんは「ロシアが直接関わっていないこと」が一因と語った。

「2008年の南オセチア紛争や2014年のクリミア併合などでも私はメディアにたくさん出ましたが、それに比べるとナゴルノ・カラバフは関心が低い。ロシアという大国が直接的に関わっていると、ウクライナにしてもジョージアの紛争にしても大きく取り上げられるけど、ナゴルノ・カラバフ紛争の場合には、ロシアが直接関わらない小国対小国の局地戦争なので、国際社会への影響が少ないのが実態なんです」

その上でアゼルバイジャンやアルメニアの両国が「日本との関係が薄いこと」も大きいとした。

「両国ともすごい親日国ですが、関係は薄いですよね。主な輸入品にしてもアルメニアでコニャック、アゼルバイジャンもワインやザクロジュースくらいです。それらの輸入が止まっても、日本の生活にほとんど影響がありません。アゼルバイジャンは産油国ですが、同国の石油は一滴たりとも日本には入ってきてないんです。カスピ海油田の開発にはINPEXや伊藤忠も参加していますが、それは企業活動として入っているだけで、その石油が日本に来るということではありません。両国への直行便もないし、心理的にとても遠い国だと思います」

 

■ナゴルノ・カラバフ紛争をどうみるべきか?

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ナゴルノ・カラバフ紛争で破壊された戦車。(アゼルバイジャン・フィズリ県で11月18日に撮影)
Gavriil Grigorov via Getty Images

いくら日本とは縁が薄い地域とはいえ、21世紀になって国同士が武力衝突で領土の奪い合いをしている状況を放置していていいのだろうか。

廣瀬さんも「戦争で奪われた領土を戦争で取り返すというのは中世や帝国主義の考え方」と批判する。

2国間で武力による領土の奪い合いが起きているのに、国際社会のほとんどの国が距離を置いてみていたという現実をどう感じているだろうか。

「決して、いい終わり方じゃないですよね。不当に領土を取られた国がある戦争を30年近く国際社会が放置したことが一番良くないと思います。そこで両方が納得行くような解決を、早めに国際社会が導いていれば、今回のことは起きなかったと思うんです」

その上で、廣瀬さんは「未承認国家は平和な状態ではない」と強調した。「ナゴルノ・カラバフ共和国」という未承認国家を28年間に渡って国際社会が放置してきた結果、多くの死者が出る紛争に繋がったという見解を示した。

「今回の件は悪い先例になりかねなくて『取られた領土は戦争で奪還できるんだ』という認識が世界に広まると、似たようなことが各地で次々に起きると思うんですよ。これが先例になってしまうと、今後はすごい問題になる。そういう意味でも、私は警鐘を鳴らしたいですし、国際社会は身をもって反省すべきだと考えています」

■ 廣瀬陽子さんのプロフィール

1972年、東京生まれ。慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は国際政治、 コーカサスを中心とした旧ソ連地域研究。主な著作に『旧ソ連地域と紛争――石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会)、『コーカサス――国際関係の十字路』(集英社新書)、『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス)、『ロシアと中国 反米の戦略』(ちくま新書)などがある。