『日本人は、なぜ議論できないのか』 第4回:議論はどこでもギロン?(中)

対話(ダイアローグ)の集積ではなく、独白(モノローグ)の連鎖の展開が、日本的な言語行為の特徴といえるのではないか。
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先回の連載へのコメントにもあるように、言語が違えば、「ギロン(ここでは、複数の人間が関わる集団において、彼らが言語の意味を共有化、つまり、相互認識を形成していく過程を通して、何らかの合意が形成された時の、そこに至る一連の言語行為を意味するとする)」のアプローチ/方法論は異なるといえる。「議論」は中華人民共和国の簡体字では「议论」と表す。ところが、「議論」を日中辞典でひくと、「议论」ではなく、「争论(争論)」「争辩(争弁)」「辩论(弁論)」 とある。逆に「议论」を中日辞典でひくと「論議」「物議」「意見」「取りざたする」とある。「人間」が日本語では「人」を、中国(漢)語では「社会」を意味するほどの違いはないにしても、同じ漢字であっても、「議論(议论)」の意味は、日本と中国では異なると言える。 試しに、「argument」を英中辞書でひくと、「争论」「辩论」「言论(言論)」とあり、「议论(議論)」がでてこない。明らかに、「議論」=「议论」ではない。

日本語の「議論」を考えるに、第1回の連載で述べたように、「議論」を熟語として、あえて取り出して扱うと、「文化」というと「culture」を無意識に想起するのと同様になるのかもしれない。ご存知のように、「文化」は明治時代に、西周が「culture」の対訳語として使ったことがはじまりと言われている。「文化」は確かに漢語であるが、中国での意味は、「徳により民を教する(武力ではなく、学問・教育で民を導く)」であり、基礎的教養や読み書きのことであり、日本人の使う「文化」の意味とは異なる。つまり、日本人の頭のなかでは、「文化」=「culture」である可能性が強い。

「議論」も、その背後に英語の「argument」や「debate」を想起している可能性が強いのではないか。故に、攻撃的であるという理解を持って、「議論」を負の方向に解釈する傾向があると言える。実際、日本語の「議論」の国語辞典の説明は、「argument」の直訳と言っても問題はなかろう。その一方で、我々は、日常の社会生活において、言語行為を通じて、他者との間で意思疎通をはかり、合意(≒了解)の形成を問題なくおこなっているわけである。しかしながら、第3回の連載で論じたように、「意見の対立がある状態が、自然な状態である」という認識を起点とする「argument」を中心とした一群や「dialogue(対話)」と言った、明確な相手を念頭に置いて互いに自分の意見を主張するあり方とは、日常的な日本の「ギロン」のあり方(≒「話し合い」)は異なると言えそうだ。

良く、日本人は論理的(一貫的)でないと言われるが、人間は本質的に論理性(一貫性)がなければ、人格を統合するのは難しい。欧米の論理の背景にある常時的一貫性の堅持が、「場をしのぐ」と言う表現があるように、日本社会では、「場」に閉じているだけである。「場」と「場」の間の論理的一貫性は問われない。それを欧米人が見れば、「論理的でない」となるが、決して、日本人に論理性(一貫性)がないわけではない。これと同じように、日本には、日本の「ギロン」があって当然であり、それには合理性が存在し、欧米の「ギロン」との間に優劣の差はない。しかし、問題は、それを意識化することなく、絶対視することである。不可逆なグローバル化が加速化するなかで、自ら、日本の「ギロン」を相対化する必要がある。

しかし、中国出自の漢字を使った熟語の背後に外来語が張り付いているというのは、かなり複雑で、厄介な状況であると言えよう。つまり、「議論」という中国出自の漢字という文字として認識しながら、頭では、「argument」という外来語を想起し、身体化された反応は、優れて日本的(「議論」ではなく「話し合い」)という、整合性に欠ける、不可思議な状況である。これは、「議論」という熟語に限ったことではなく、明治維新以後、急激に欧米の概念を漢字の熟語にして導入したことに起因して、日本社会に根付いた状況であると言えよう。これは、「漢字」と「仮名(漢字が真(の)名であり、カナは仮の名という意味であることを認識する必要がある)」という、日本における言語の二重性は、漢字の移入以来指摘されるところである(『二重言語国家・日本』石川九楊を参照)が、明治以降は、これに外来語、主に欧米の単語が、翻訳の過程で加わり、三重の言語構造になっているとも言えるのではないか。

昨今は、この状況にくわえて、定義はおろか、意味すら理解できていないカタカナが増殖していきているため、「ギロン」をしようにも、思考が停止状態に近くなっているのではないかと危惧している。

それでは、日本の「ギロン」と欧米の「ギロン」の違いは、なぜ生じるのか。第2回の連載でも述べたが、日本的社会は、「思う」「共感する」「合わせる」であって、「考える」「主張する」「選択する」ではないと言われても、違和感を覚えない読者の方は多いのではないか。「思う」「共感する」「合わせる」の背後には、対峙する外部存在ではなく、すり合わせる外部存在を想定している。畢竟、日本の日常的な「ギロン」、すなわち、「話し合い」の特徴について考察するとは、社会の言語行為のスタイルの問題に帰着するといえる。

そこで、日本社会での言語行為の特徴を考えてみたい。日本社会の言語行為を英語のコミュニケーションと捉えても問題はないだろうか。コミュニケーションをあえて定義すれば、複数の人間(2人以上)が、言語を通して認識を共有(相互認識)することによって、なんらかの結果がもたらされた(目的が達成された)時、その相互性にもとづく言語行為をコミュニケーションと言うことができよう。この意味で、コミュニケーションの訳語は「対話」ということになる。それでは、日本社会における言語行為において、対話性は濃厚であろうか。このハフィントンポストの連載へのコメントを見てみても、対話性が濃厚であるとは言い難いのではないだろうか。むしろ、対話性は希薄であるとは言えないか。言い換えれば、日本社会の言語行為の特徴は、対話(ダイアローグ)的であるよりは、独白(モノローグ)的であるところにないだろうか。日本的な組織における会議(古くは、地域共同体である村落の寄り合い)をみるに、特定の相手に向けてメッセージを発し、各自の意見を互いに主張し、それをぶつけ合うのではなく、むしろ、相手を特定することなく、意見の対立は顕在化することなく、会議と言う「場」に、独り言(モノローグ)のように発せられる参加者一人一人の考えや意見(思いや心情に近い)が次々と置かれていくと言えないか。そして、この独白(モノローグ)の連鎖が意見の分布状態を示し(この相違は、「議論」ではないので、対立に発展しない)、その分布状態と言う構図のなかで、各自は自分の位置をはかり、自分の意見や考えを微修正し、何回か会議を行う過程で、参加者各自の意見や考えは、成功した会議の場合には、あるしかるべき点に収斂してくる。これを、「衆議一決」というのではないか。つまり、日本の会議は、決定を前提に行われていない。決定は、プロセスの最終的な結果でしかないのである。

このように、対話(ダイアローグ)の集積ではなく、独白(モノローグ)の連鎖の展開が、日本的な言語行為の特徴といえるのではないか。(『コミュニケーションの記号論』中野収を参照)読者も会議において相手の発言を受けて行われるはずの次の発言も独白(モノローグ)であったという経験をしてはいないだろうか。職業柄、ゼミで学生に「議論」を促すのだが、結果は、相手を特定しない独白(モノローグ)の連鎖であることが多い。

ここに、日本人が、良く使う「説得されたが納得しない」という、論理や理屈を背景とする「説得」とプロセスを重視する「納得」を使い分ける理由が存在するのではないか。

次回は、日本的な言語行為の特徴である独白(モノローグ)の連鎖について、深堀りをしてみたい。

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