日本の公立小学校に通う我が子、入学直後の生活科(理科と社会が一緒になった科目)の授業で、学校内の施設を調べたり、友達に名前を聞いたり、ちょっと慣れてきて町内を級友たちと探検したりしていたその頃。シンガポールのインターナショナルスクールに通う、我が子と同い年の友人の子供はというと、なんと宇宙について学んでいた。紙粘土で太陽系の模型を自作したり、絵を描いたりするそうだ。
聞けばシンガポールに限らず、インターナショナルスクールではどこもかなり早い段階で太陽系について教えるらしい。なぜならそこがインターナショナルスクールだから。生徒はみなバラバラのルーツを持っているし、大半が親の事情で一時的にその国に滞在しているに過ぎない。だから日本の様に地元の地域と密接に繋がるよりも、まずはとにかく地球家族!みたいなスケールの大きな話しが出てくるようだ。
子供達の学びの第一歩がこうも対照的なので、 日本の公立小学校とインターナショナルスクールとではその後の展開もまた対照的だ。入れ子で例えるならば、日本の公立小学校では、まず一番小さい箱を子供たちに見せて、そこにどんどん大きな箱をかぶせていく。それに対してインターナショナルスクールでは、初っ端からドーンと最大級の箱を子供に示し、ではこの中に何が入っているでしょう、と箱を開けていく。
こどもの体は小さく、思考も単純。だからミクロな視点からステップバイステップで学びを広げていこうという日本の教育の理屈はよく分かる。ただ、一方でこのアプローチ、ちょっと玄人向けじゃないかな、とも思う。
たとえば小さな子供に好きな食べ物を尋ねた場合、大抵の子はハンバーグとかお寿司とか、派手さのある食べ物を挙げる。ほうれん草のおひたしとか、柴漬けとか、あるいは炊きたての白米とか、そういうことを言う子供は少数だろう(うちの息子は6歳のときに「炭水化物」と答えたのでもちろんそういう子供もいるにはいるけれど)。
またたとえば、大抵の幼い子供はヒーローものやプリキュアが好きだ。いい人が悪いやつをやっつける単純明快なストーリーが心に響くからだ。人間の細かな感情の機微を巧みに描写した文学作品を読み聞かせたところで、おそらくほとんどの子供が理解できずに退屈する。
思考が単純だからこそ、子供は世の中をいたってざっくりと、大きな視点で捉えている。善悪、大小、好き嫌い、楽しい退屈。そんな幼い子供達に、さあこれから世の中のお勉強を始めますと言って町内について調べさせ、自分がどこに根を張って生きているのか、何によって生かされているのか、最小単位を知らしめようというのはもしかすると凄くハードルの高いことなんじゃないだろうか。だって考えてみれば大人でさえ、嫌というほど不摂生を続けてこそ初めて素朴なおふくろの味の良さに気付くというもの(わたしは以前、子供の幼稚園の遠足のお弁当に手作りがんもどきを入れて、手がかかった割に全く喜ばれなかった経験があるのでとてもよくわかる)。わたしたちの当たり前の暮らしを支えてくれている風の中の昴、砂の中の銀河、地上の星はかくも忘れ去られがちな世の中、灯台下はそもそも暗いのだ。
"自宅から通学路までの間にはポストがありました" "三丁目の魚屋、店主の名前は前田さん"、そりゃ知らないより知っておいた方がいいだろうけれど、このタイミングで必要なことは恐らく、これからめくるめく知の冒険が始まるぞ!とワクワクさせる何か、子供の単純な思考にすらビビビっと刺激を与えるロマンで、そういったものがもっと、日本の公立小学校の授業にもあって良いのではないかと思うのだ。