肩身の狭い思いを強いてはいけない

立場の弱い人を排斥するのはもってのほかだが、立場の弱い人が申し訳なさそうにしていれば受け入れられる、そんな状況に甘んじているのもだめだ。
SWITZERLAND - SEPTEMBER 27: An eldery couple walk on the Paradeplatz in Zurich, Switzerland, Wednesday, September 27, 2006. (Photo by Christophe Bosset/Bloomberg via Getty Images)
SWITZERLAND - SEPTEMBER 27: An eldery couple walk on the Paradeplatz in Zurich, Switzerland, Wednesday, September 27, 2006. (Photo by Christophe Bosset/Bloomberg via Getty Images)
Bloomberg via Getty Images

先日バスに乗っていたときのこと。ある停留所で停まったバスが一向に動かないので何事かと思ったら、杖を持ったおじいちゃんがバス入り口の段差で難儀し固まってしまっていた。奥さんとおぼしきおばあちゃんは先にバスに乗り込んでいて「ほら、あんた迷惑かけてるんだから急ぎなさいよ、歩けるでしょ」と声をかけている。おばあちゃんも足が悪い様で、同じく杖を持っている。おじいちゃんは運転手さんの手を借りながらなんとかゆっくりバスに乗り込み、座席に腰掛けた。そうしてやっとバスが発進したものの、老夫婦の行き先はその次のバス停だったので、次のバス停で二人が降りるときにも同じ様におばあちゃんが先に降り、おじいちゃんはおばあちゃんにはっぱをかけられながらゆっくりとバスを降りていった。やっとおじいちゃんが段差を降りることができたときに、ひゅっと突風が吹いておばあちゃんのかぶっていたカツラが飛ばされた。右手でおじいちゃんを支えながら、おばあちゃんは左手でカツラを追いかけた。そうこうしている内にバスが発進。

そんな二人と別の日、再び同じバスで再会した。

一度目と同じ停留所で動かなくなったバス。「バスの前に出ると危ないですよ」と運転手さんが声をかける。どうやらおばあちゃんがバスの前に出て、発車を待ってもらいながら、停留所の反対側、道を渡る途中で心が折れて動かなくなってしまったおじいちゃんに「早く来なさいよ」とはっぱをかけていたのだ。次第に状況を理解した運転手さんはバスを降りて反対車線まで歩き、おじいちゃんを抱きかかえて道を渡らせた。先にバスに乗り込んでなす術無くその様子を見ていたおばあちゃんは、申し訳ない、申し訳ないと呟きながら涙を拭っていた。そうやっておじいちゃんがようやくバスに乗り込むことができると、おばあちゃんは「みなさんお待たせしてしまってすみませんね」とやはり涙を拭いながら言った。

おじいちゃんは恐らく歩くことも段差を登ることも、ゆっくりであれば出来るのだ。ただ、何分しんどいので途中で心が折れてしまう。しかしだからといって歩かなくて良いことにしてしまうと筋力がぐんぐん衰え歩けなくなってしまうので、おばあちゃんのように、周囲はなんとか歩かせ続けなければならない。

おじいちゃんとおばあちゃんはこのときもやはり次の停留所でゆっくり時間をかけて降りていった。運転手さんは二人に「一駅分でも歩くの大変ですからね、遠慮なくバスを使ってくださいね」と声をかけた。

迷惑をかけている、申し訳ないという気持ちを少しでも二人に抱かせないために、同じバスに乗っているお客として私は何かアクションを起こさなければと強い気持ちにかられたけれど、そのときおばあちゃんに声を掛けようものなら、一方的に感情を高ぶらせ涙が出てしまいそうで結局何もできなかったので、運転手さんのかけてくれた一言に、私も救われたような気持ちになった。

子供達がまだ小さかったとき、私もおなじように肩身の狭い思いをした。

まだ上手く歩けないけれどとにかく歩きたがる子供が、ゆっくりとバスのステップを上る。その間ほかのお客さんを足止めしてしまうので、今思えばわずかな時間だけれど、すみません、すみませんと平謝りした。飛行機の中でどうあやしても泣き止まないときにも、ベビーカーで電車に乗るときにも。片手で上の子の手をつなぎ、もう片方の手で下の子を乗せたベビーカーを押しながら、突風でスカートがめくれてパンツ丸見えになって、ああ腕が3本あればスカートが抑えられるのにと思いながらパンツを見せて歩いたこともあった。そのときも何も悪いことしていないのにすみません、すみません、という気持ちだった。

とにかく毎日必死だった。世の中敵だらけに見えたし、だからこそふと「可愛いわねえ」なんて子供に話しかけてくれる人、笑いかけてくれる人がいるとそれだけで涙が出るほど嬉しかったものだ。それでも今思えば、子供達が育つまでの一時的なものだという気持ちがあったからこそ、なんとか乗り切ることが出来た。

バスの中で泣いていたおばあちゃんと、かつての私と、決定的に違うのはそこだ。

あのおばあちゃん、おじいちゃんは、今をしのげばそのうち状況が変わるという希望がない中で、それでも他者の理解と協力が不可欠な生活を送るよりほかないのだ。

少なくとも、バスの乗客は誰もおじいちゃん、おばあちゃんに批判的なことを言わなかったし、そんな視線も向けなかった。でも、それってもしかしておばあちゃんが泣きながら謝っていたからでは。。?考えなきゃいけない。他人同士が当たり前のように迷惑をかけ合いながら、助け合っていきるにはどうしたらいいのか。

別の日に、バスの中で見かけたとあるお母さんは、赤ちゃんをおんぶ紐で背負い、膝に上の子を抱えて、狭い1席に3人で座っていた。遠慮しているのか、それとも上の子が望んだからそうしているのか分からなかったので何も言えなかったけれど、もし遠慮していたのだとしたらと考えると、2席も3席も使っていいんだよって言ってあげればよかったと思う。

たとえば公共の場で小さい子を持つ親が「まとも」「常識的」と周囲を安心させるためには"私は子供を連れてます、だからもしかしたらあなたに迷惑をかけるかもしれませんがそれは不本意だし、迷惑をかけないように全力で努力してます"という無言のアピールを、特に迷惑かける前から態度で示している必要がある。そうでなければ横柄で非常識な親という目で見られかねないからだ。

健康で、誰の手を借りる必要もない大人とバスに乗り合わせても、この人は謙虚、この人は横柄だと判断したりしないのに、こと特別に周囲の助けや理解を必要とする人に対して、それに値するかを探るように、謙虚か横柄かと無意識に判断する。まずはそういうケチな考え方をやめよう。私たちが頭では正しいと考える社会の空気を作るために、他者により寛大になるのと同時に、自分の中の排他的な無意識に自覚的になる必要がある。

立場の弱い人を排斥するのはもってのほかだが、立場の弱い人が申し訳なさそうにしていれば受け入れられる、そんな状況に甘んじているのもだめだ。

何しろ今、仮に子供との暮らしが他人事の人だって、生きていればいずれは老いるのだ。自分がいつ車椅子生活になるとも限らない。決して永遠に健康で、誰の手を借りずとも1人で強く生きていけるなんてことはないのだ。

足の悪いおじいちゃんおばあちゃんが、あるいは小さい子を連れた親子が、バスに乗る。こんな当たり前のことに肩身の狭い思いをしなくていいような空気を作って行かなきゃいけないし、ゆくゆくは当事者になる者として誰もが考えていかなきゃいけない。

ところでこれは先日焼いたシナモンロール。。どうしてこうなった、と言いたくなる仕上がりだが最近少しブランクがありまして。。

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