あっという間に12月、2017年も締めくくりです。
バングラデシュでは4月にお正月を迎えるので、12月は、日本のように師走の空気感も、クリスマスのイルミネーションや音楽を見聴きすることも(9割イスラム教徒の国なので)、一年を振り返る意識もありませんが、やっぱり日本人の私としては、2017年に目指したこと・できたこと・やり残したことなどを考えてしまいます。
ABROADERSのおかげで、皆さんへバングラデシュや自分のことを伝える機会をもつことができ、それにあたり視野もちょっとだけ広がったようにも思っています。
前置きが長くなりましたが、そんな今年最後の記事は、「ロヒンギャ難民キャンプ」に訪れた日についてです。
「ロヒンギャって何?」という人も、日本にはまだいらっしゃるかもしれないので、少しでも知ってほしいと願います。
ロヒンギャ問題。
彼らについては多く報道されているとおり、ミャンマーからバングラデシュへ逃れてきた難民であると一般的に知られていることと思います。その数は今60万人に上っています。しかし今回はそういった説明ではなく、私の目で見て感じたキャンプのことを書きたいと思います。
11月末、私はチッタゴン(首都ダッカからバスで6~7時間程南下した、バングラ第二の都市)に住む友人に会いに、またミーティングの用事もあって、そこへ向かいました。どちらとも、会うのはお馴染みのチャクマ民族の友人です。
チッタゴンへ移動するバス車内、タイヤがパンクして止まっているあいだ、隣に座っていたベンガル人のおじさんとのお喋りが始まりました。おじさんは自分の足下の袋を指差しながら私に言いました。「これはロヒンギャに持って行くんだ。ロヒンギャは今年中にミャンマーに帰ってしまうから......」と。ロヒンギャに物資を持って行く人には、これまでにも数人出会っていましたが、ロヒンギャが今年中にミャンマーに帰るなどという情報は初耳でした。
チッタゴンに着いて、友人が私に滞在期間を聞くので、急にどうしたのかと尋ねたら、彼女は私がもう少し長くいるなら一緒にロヒンギャ・キャンプに行きたかった、と話しました。
もちろん私にとってもずっと気にかかっていたことはではあったのだけれど、ある理由から行くことを控えていました。
ひとつは、中途半端な気持ちで関わるものじゃないと日本のNGOの方に言われたこと。もうひとつは、マルマ民族でありUNDP(国連開発計画)で働く友人から「ミャンマー系の顔立ちの僕たちが行くと、危ないかもしれない」というアドバイスがあったからでした。
しかしこの時、私が信頼する彼女が無邪気に放った「帰ってしまう前にロヒンギャに会いたい!」という言葉は、他の人にどう捉えられるかは分かりませんが、素直にいいものだと私は感じました。彼女はチャクマ民族で、ミャンマー系の顔立ちに、仏教徒。ですが、「その国にとってマイノリティという境遇ゆえに、苦労が多い」という点はロヒンギャと共通しています。
1月からボランティア活動でアフリカに半年間行く予定の彼女は、困っている人の話が聞きたくて、また、いち民族としてのアイデンティティをもつロヒンギャに会ってみたかったのです。
そうして私たちはロヒンギャ・キャンプに行くことを決めて、翌日早朝発のバスで、チッタゴンからさらに南のコックスバザールへ向かったのでした。写真は、キャンプ間近で見た、配給所に並ぶロヒンギャの人たちの風景です。
キャンプを見つめるロヒンギャの女の子
コックスバザール、ウキヤ・ハキムパラに位置するタンカリ・キャンプは、約7000家族で構成される、バングラデシュ最大のロヒンギャ・キャンプのひとつです。
ここのキャンプは18のセクターに分かれていて、各セクターは「Majhi(マジ)」と呼ばれるリーダーの下で管理されていました。そしてすべてのマジたちはキャプテン・マジによって指揮されているのですが、この数ヶ月間で仕組みがしっかりできていることに驚きました。 すべてのセクターには380~400家族が属し、各家族は5~12人ほどです。
キャンプに着くまでは、ちょっと恐怖感もありました。噂では、ロヒンギャは教育すらまともに受けていないから話をするのも困難で暴力的だと聞いていたからです。それに、本当に私たちの容姿では、ミャンマーにいた時に彼らを差別・迫害をしてきた人間と同じだと勘違いされて、睨まれるのではないか――と。
キャンプに足を踏み入れると、携帯の電波がバングラのもの(Grameenphone)からMM900という表示に変わったり戻ったり、そこがまさしく国境沿いであることを感じました。私はFacebookでLive中継を行いながらキャンプを歩いてみました。後からビデオをあげるのではなく、今そこに在るものとして伝えたいと思ったからです。
そこで映ったものは、私が予想していたような恐怖におびえた視線ではなく、カメラに興味を示してキラキラした眼差しを向けてくるロヒンギャの子どもたちでした。
道を歩きながら、ブルカ(イスラム教徒の女性の黒ずくめの衣装)で目以外を覆ったロヒンギャ女性と、ベンガル語で会話もしました。そう、ロヒンギャはロヒンギャ語と称するベンガル語(バングラデシュの国語)のチッタゴン方言のひとつを話すのです。
そうした「感動」を受けながら、私はキャンプを進んで行きました。
キャンプに行った後、同様に行ったことのある日本人の方々と首都ダッカで会う機会が数回ありました。第一声で「あれはひどいよね」という話が主流となり、内心違ったことを感じた私は言いたいことが言えなくなってしまいました......。ごめんなさい、正直そこまで劣悪ではないというか、私は住めると思ったし、難民キャンプではなくとも同じような環境の村はバングラの他にもあるのが真実です。
感覚の違いだとは思うのですが、私には彼らが割と潤っているようにも見えたことで、世界からの注目度の高さやイスラム教の力を感じた驚きのほうが強かった。ロヒンギャには、世界のイスラム教関係機関や各支援団体、NGO、そしてバングラデシュ国内(バスで隣にいたおじいさんのように)から支援が集まってくるのですね。
家の造りは脆そうだけれど、トイレは、私のよく行くチッタゴン丘陵地帯の村々と似たような感じです。しかも、ソーラーがあるなんて、更にハイグレード(写真では見えづらいですが、屋根に太陽光発電装置があり、写真の扇風機もそれで動いていました)!
たしかに彼らの状況を思えば気の毒だし「可哀想」ではあるのですが、彼らが同情される立場であること以上に、彼らの笑顔のきらめきやたくましさを伝えたくて、今この記事を書いています。
それどころか、私はある共通点を彼らの中に見つけて、嬉しくてたまりませんでした。
まず、上の写真に映るお母さんは「タミ」を着ています。バングラデシュでは少数民族マルマが伝統着にしているマルマ・タミを、ロヒンギャの女性も着用しているとは!
もともとマルマは、バングラでもかなりミャンマーに近い文化の少数民族なのですが、そんなミャンマースタイルのマルマが私は大好き。そのマルマスタイルをロヒンギャが、イスラム教徒・ベンガル人系であることは関係なく身に着けていることに胸が高鳴り、私にとってはジュマ(バングラ側の国境沿いの11民族)もロヒンギャも同じ愛すべき存在だ~と興奮しました!
そして下の写真、これはちょっと分かりづらいのですが、この子の顔面がうっすら白いこと、伝わりますか?
これはバングラではチョンドンと呼ばれる天然パックを塗っているからなのですが、ミャンマーでは同じものがタナカと呼ばれていて、この文化の共通点も嬉しく感じました。
キャンプの中には、ユニセフ等が開く小さな学校(学習センター)が点在していました。
教室にいる子、教室の外から授業を眺める子、道で遊ぶ子とさまざまなので、「どうしてみんなが行かないの?」と尋ねると、「子どもが多すぎて一度に全員には教えられない。交代制なんだ」そうです(ユニセフの調べでは、ロヒンギャ難民の6割が18歳未満の子どもだとか)。
それでも「良かった」と思い、授業風景を見ていると、子どもたちが声高らかに歌を唄っていました。歌詞は「いつか私たちは乗り越えよう、私はいつか私たちが乗り越えられると信じている」という内容だと知りました。
私もまた、彼らがいつか乗り越えることを信じています。今はまだつらいけれど。
キャンプの中で、ある家族にインタビューをしました。
写真真ん中の白髪のおじさんが袋から取り出して見せてくれたもの......それはたくさんのCertificationやIdentificationでした。
おじさんは、ミャンマーではアラカン州立高等学校の副学長を務めていたそうです。1985年にヤンゴン大学を卒業、物理学を修めた証明書や、彼の息子や娘たちの卒業証書もありました。長男は2012年にシットウェー大学の入学試験も通過しましたが、ミャンマー政府の不正行為のために高等教育を受けることができなかったと言います。次男も今年の入学試験で最高スコアを出したにもかかわらず、今はこのキャンプで、未来の見えない生活を送っています。
ロヒンギャの人たちが故郷の村を追われ、国境を越えて来る際、命からがらナフ川を渡ってきたという事実を、私はYoutubeで見て知っていましたが、「こういう証明書は重要なの?」と思わず聞くと、「これがないと、どこに逃れても未来がないんだ......」と答えました。
日本では、証明書類を失っても何らかの形で後から取得できるように思いますが、このような境遇の彼らにとって証明書は、人生や命を左右する大切なものだと知りました。大切に、一つひとつラミネート加工されているのも印象的でした。
そんな大切なものを私たちに見せてくれるくらい、いつの間にか距離は縮まっていました。キャンプに来る前までの伝聞で抱いていた印象とは、まったく変わっていました。
また私たちは彼らに、「もしミャンマー政府が、アラカン(ロヒンギャが多く住んでいた地域)に戻ることを求めたらどうする?」と尋ねました。彼らは「もし正義を獲得できて、政府が僕たちの要求をきちんと聞いてくれるなら......」と言いました。要求とは、独立ではなく、ミャンマーの中でロヒンギャという一民族として認められ、国籍を得ること。また「もしバングラデシュ政府が、あなたたちに国に戻ることを強いたらどうする?」と尋ねると、彼らは「その時はベンガル湾にジャンプして自殺するよ」と言いました。
下の写真で、薬を配るNGOスタッフにインタビューしているのが、チャクマ民族の親友で、今回一緒に行こうときりだしたウジャニです。
あと2~3ヶ月でロヒンギャがミャンマーに帰されるという話は、政府同士の口約束のようなもので、実際はひと筋縄にいかないことだと分かりました。内部で活動をする人たちは「あと4~5年はこのままだよ。むしろキャンプはあっち側にもまだ増えていくよ」と空き地のほうを指して言いました。
写真下の赤ちゃんは生後7ヶ月......、これからどんな環境で生きていくことになるのでしょうか。
キャンプを出た後、ミャンマーとの国境を見に行けるだけ行こうという話になりました。
写真左下、真ん中に見える山と土色の部分は、もうミャンマー側の道路なのだそう。「ミャンマーのトラックが通ったね」なんて言いながら、向こう側を眺めました。写真右下はロヒンギャ・キャンプの跡地で、この数ヶ月で移動させられた形跡も見えました。
写真上は「ノー マンズ ランド」。昔、地理で習った記憶があります。私たちの立っているのがバングラで、向こうのノー マンズ ランドは、バングラデシュでもミャンマーでもない土地です。しかし今は、ロヒンギャの人たちがキャンプを張っています。国境警備隊が居たので、向こうまで行くことはできませんでした。
この日、私は夜行バスで首都ダッカに戻りました。安易と言われてしまうかもしれませんが、ただ心から「またロヒンギャに会いたい。また来る。会えて良かった。生きていてくれて嬉しい」と思いました。
Ambassadorのプロフィール
Natsumizo
1985年、宮城県女川町生まれ、青森県育ち。日本大学藝術学部映画学科在学時に、ドキュメンタリー制作のためバングラデシュを訪れる。卒業後、Documentary Japanに務める。2014年、学生時代作品への心残りや日本よりも居心地の良さを感じていたバングラデシュに暮らし始めることにし、作品テーマや自分の役目(仕事)を再び探すことに...その中で出会ったこの国の少数民族に魅力とシンパシーを感じて、彼らと共に生活していきたいと思う。ドキュメンタリー作品『One Village Rangapani』(国際平和映像祭2015 地球の歩き方賞および青年海外協力隊50周年賞受賞 http://youtu.be/BlxiN2zYmjE)、カメラ教室、クラウドファンディングや写真集『A window of Jumma』の制作などを行ってきたが、この地で映像作品制作を続け、この先は映画上映会(配給)や映画祭などの企画にも挑戦していきたいという夢を抱いている。